■図書室
大学図書館に併設された会議室は、いつも人気がない。だから、一人になりたいときはここに来ることが多かった。近場の本棚にはもう、幾ばくも古くなった文献ばかり。余程の物好きだろうと、滅多に寄り付きやしないような場所だった。
そんな奥まった地帯の、隅にあるたわんだ椅子。そこが俺の特等席だった。程よく遠い喧噪と、埃っぽい空気。少しくすんだ窓ガラスから差す陽が、明かりには丁度いい。
持参した図書を開く。准教授に勧められた論文やら、お気に入りの書籍やら、半ば衝動的に購入した新書やら。書籍は日ごとに違ったが、頁を捲る度に心の淀みが静まっていく。この日も、そうなるはずだったんだが。
「おっと、誰かと思えば」
書物を半分ほど読み進めたところで、耳鳴りのような声がする。足音にマズルを顰める前に、俺の視界内にこれ見よがしに入り込んでくる狼。どこで嗅ぎ付けたのやら、相変わらずの目ざとさに辟易する。
「何の用だ」
「そう睨むなよ。教授にパシられただけだって」
用が済んだら出ていく、とでも言いたげな口調だった。なんだか違和感があった。普段なら頼みもしないのに絡んでくるような奴が、やけに大人しい。
「…………」
奴は尻尾を陽気に震わせながら、室内をぐるりと一周する。会議室には備え付けの本棚があったが、そこに立ち並ぶ本は、部屋の外にあるものより遥かに萎びたものが多い。余程酔狂な教授らしいな。まぁ、こいつをパシらせる時点で相応だとは思うが。
「お、あったあった」
わざわざ聞こえるように呟いて、狼は一冊の書を手に取る。動作の反動で埃が舞い、陽だまりの中をちらちらと漂った。狼が本を開けば、そのちらつきは更に数を増して。
物憂げな空間に、頁の擦れる音だけが満ちる。息遣いもあまり聞こえないような、柔らかな静寂。やがて、視界に映る文字が上滑りし始めたとき、俺は溜め息をついて本を閉じる。
「お、どうした」
「…………」
……別に気に留めることはない。こいつの用はこれで済んだ。後は立ち去るであろうその背を、事も無げに眺めるだけ。それだけのはずだ。
だというのに、なぜか俺の口は、あいつの名を口にする。
「梓馬」
不意に音が消える。そして小さく「へ」と聞こえた後で、いつものニヤケ面がふらりと表情に現れた。不本意だが、呼び掛けてしまった事実は消えない。どうせならば、と俺は抱いていた疑問を発す。
「……行くのか、もう」
「ああ、もうすぐな」
思いの外、素直に返ってきた言葉に動揺しかける。善人から話は聞いていたものの、いざ当人の口から聞くと現実味が違う。半然たる事実が今、そこで笑みを浮かべている。
「泣いても喚いても、申請書は出しちまったし。あとは来たるべき時を待つだけっつーか」
「……そうか」
やはり行くのだ、この輩は。春先の突風のように周囲を巻き込んでおきながら、涼しい顔でどこかへ去っていく。誰にも阻害されず、指図されず。ただ己の赴くままに生きて、そのくせ蠱惑的で。
結局のところ、最後の最後までこいつはそうだった。間もなく、隙もなく、暇もない。こちらの感情など、この狼にとっては些末なことなのだろう。だからこそ俺は、こんなにも気を揉んでしまう。
「なんだよ、まさか怒ってんのか」
見透かすような眼差し。この朱い瞳の表面に映った以上、何を言おうと言い逃れようもなかった。実際どうしてか俺は、こいつが黙って行こうとしたことに怒りを覚えている。
「……当たり前だ」
「ま、そりゃそうか」
あまりにもあっけらかんとした態度だった。とはいえこれまでの関係性からすれば、強く主張できる立場ではないことも事実。それを理解しているからこそ、余計に腹立たしい。
「なぜ言わなかった」
「なぜって言われてもねぇ。別に大した意味はねーし」
「…………」
「強いて言や、俺の辞書にも『感傷』って言葉は載ってたってところか」
「ふざけたことを……」
「そう言うなよな。つーか、もうちょい信用してくれたっていいんじゃねえか」
あくまで飄々としている狼が、やはり俺には解せない。恐らく言葉通りなのだろうとは思うが、宗谷梓馬という人物が感傷を口にすることへの違和感のほうが強かった。
「ま、どっちみち湿っぽい別れとか柄じゃねえしな。お前らのシケた面見るのも勘弁」
「……いつもそうだな。こちらにはずけずけと踏み込んでくるくせに、お前は何もかも隠したままいなくなる」
「あのときみたいに、か?」
「…………」
「そういや似てるよな、ここ」
からりと話を逸らした狼は、おもむろに机の端に腰を据える。座ったままそちらを仰げば、逆光の中の朱い眼もこちらを見降ろした。似ている……ああ、確かに似ていた。ここはまるで、青春と称すには苦々しい日々の、底に埋もれた図書室のようで。
「思い出すだろ、悟くんも」
「……何が言いたい」
「くはっ」
分かってんだろ、とでも言いたげな含み笑い。いっそ嘲笑混じりに一蹴してしまえれば幸せだったのだが。この場所を無意識に選び取った現実は、紛れもなくここに在って。
「悟くんも思い出してくれてたんじゃねえの、梓馬くんのこと」
「……そうかもしれないな」
「へ。あの頃に比べりゃ、随分素直になったじゃん」
「お前に好かれるのは御免被るからな」
「あれれ、逆じゃねっけ」
「黙れ」
ケラケラと笑う狼の隣で、俺は内心複雑だった。話によれば、こいつが次に帰ってくるのは一年後。つまり、共に卒業の時を迎えることはない。こうして相まみえるのも、実質……これが最後。
「……梓馬」
「ん?」
「ずっと、訊きたかったことがある」
予想していたよりも、喉はすんなりと声を発した。狼の口角が上がる前に、言を接ぐ。
「なぜお前は……俺の告白を受け容れた」
当時、あれだけの候補がいた。それこそ数多と言って差し支えないほどの人数が、この狼に惹かれていたことは間違いない。その中からどうして、面倒な手間まで掛けて俺を選んだのか。
「今でも分からない。俺が選ばれた理由は、一体なんだったのか」
「……へ、なるほどな」
何かに納得したように鼻を鳴らし、狼は頷く。視界の端をふらふらとうろつく尾の先が、妙に目にうるさい。
「端的に言や、嬉しかった、ってとこか」
「嬉しかった……だと」
「覚えてんだろ、あんときの台詞」
――なってやるよ、俺が。
――お前の……そういう人に。
言われて即座に胸を過ぎる、あの日の言葉。今思い返しても、若気の至りと言うにも恥ずかしいほどの台詞だ。咄嗟に出したものだったとはいえ、もう少しマシな表現があっただろうに。
「正直昂ったよな。ああやってマジで踏み込んでくれる奴なんて、全然いなかったからよ」
「……別にあのときは、そんな大層なことなど」
「おいおい。せっかく素直になったんなら、ここは黙って受け取っとけよ」
「…………」
いつもの飄々とした調子で言われてしまうと、どうにも判断しかねる。だがこれきりかもしれないというタイミングまで来て、煙に巻いてくるほど薄情な奴とも思えなかった。
――くはっ。
それに、あのとき焼き付いた眩い横顔を、信じてしまいたくなる自分もいて。
「ま、お騒がせクソ狼の置き土産だと思って、甘んじてくれや」
「…………」
「つーわけで、邪魔したな」
言うだけ言って、腰を持ち上げる狼。古ぼけた本を片手にふらふら歩を進めたかと思えば、ぼんやりとした光の中を横切っていく。暗がりに溶ける影と、身動ぎで軋む椅子。本当に、不愉快なほど、ブレないクソ狼。去りゆく背中の、その変わらなさと言ったら。
――俺はやめとけ。
――好き……じゃ、なかった。
それに比べ、酷くガキみたいだった自分。好き勝手に憎んで、あまつさえあんな、勝ち誇ったような宣言を。くだらなすぎて嫌気すら差してくる。
――俺は、お前に……。
……例え、そういう言葉で誤魔化したとしたって。夕時襲い来る焦燥のごとき恋情は、はぐらかせやしなかった。俺がこいつに惹かれたこと、こいつがそれを嬉しいと表したこと。それを受けて今、素直にならねばならなかった。不意に訪れた、別れの刻のために。
「待て」
立ち上がり喉から絞り出した声は、存外小さかった。しかし呼び止めた相手は、律儀に歩を止める。
「俺は、お前に……」
「悟」
続けようとした言葉は、梓馬の声で遮られる。伏し目がちだった顔を上げれば、緩い陽の最中に浮いたあの眼が、こちらを優しく捉えて。一寸もしないうち、口先が静かに動く。
「知ってっから、ちゃんと」
「…………」
「エスパー嘗めんなよ、っつー話」
「……そうだな」
「じゃあな、悟くん」
胸やけのようなニヤケ面を残し、狼はとうとう去っていった。遠い喧噪。渇いた空気。くすんだ窓ガラスと、翳りなき日の光。一人になった俺は、「ふ」と笑みを零し立ち尽くす。
俺にとって、ひたすらに卑怯で在り続けた、憎たらしい狼の横顔を浮かべながら。