■セカンドムービー
温い紅茶。温い店内。春先の緩み切った雰囲気と、空気中に粒になって滞留する気怠さ。朝から重い肩と瞼に嫌悪感を抱きながら、首にかけたヘッドフォンを弄ったところで、仕切りの向こうに見覚えのあるような影を見つける。
そんでわいは、不意に思い出す。猫だったか、豹だったか、虎だったか。体格は良かったが、種族すら覚束ないような。そん程度の奴のこと。出会い系アプリで知り合うた、無粋極まりひん男のことを。
◆
そん日は、映画を観とった。内容は……よう覚えとらん。そんときのわいは、不愉快さに顔を顰めかけてたんを、どうにか堪えとったから。
「ねえ」
アプリでメッセージを送り合うて、一週間もしないうちのこと。いきなりのデートの誘いに、試しにと乗ったはええけど。上映中頻りに腕を触ってきよったこいつは、エンドロールが流れ始めるなりしれっと言い放つ。
「この後、どうする?」
正直、ないわ、と思うた。顔は確か好みやったし、身体にも惹かれはした。そいつがそうだったように、わいもそのつもりで来てはいた。性欲目的だろうが、公共空間でがっついてこようが、別に構わんかったけど。
そんでも、感慨を共有できん奴とおるんは、寂しいことちゃうかって。
「君さえ良ければ……どうかな」
腕を撫でていたはずやった手は、いつの間にか太腿へと移動しよった。暗がりで周りにはよう見えへんやろ、とか、お前もこういうの好きやろ、とか。相手の荒い息遣いがそう告げとるように思えて。
太腿を擦る大きな手に、自分のちゃっちい手を重ねる。久しぶりの他人の温もりは、冷えきった心を抉るんには優しすぎて。
こんな。こんな優しいんに。頭ん中ではずっと、あん日の声が渦巻いとって。なんか気味の悪い呪いみたいに、離れてくれへんで。
――好きってもっと、楽しいもんじゃねえのかよ。
「…………」
……ほんま、ムカつく猫やわ、あいつ。こんな場面でまで出張ってきて、邪魔しよる。
「ウタくん?」
わいのハンドルネームを呼びながら、擦る力を少し強める男。その手をゆっくりと払い退け、相手の顔は見んまま、呟くように言う。
「今日は……やめとくわ」
「え、どうしてさ」
「気ぃ、乗らんから」
「……ああ、そう」
男はどうにも読めん反応を浮かべ、溜め息がちに身を竦めた。ヤリ目で会っておきながらこれは、わいのほうが酷い奴やろうけど。身は乗っても気が乗らんのも、また確かやから。
「君ってよく分からない子だね」
まるで捨て台詞のように吐かれた言葉は、存外耳に残って。
……ほんで、その後んことは、大方予想通りやった。不満そうに立ち上がった男は、エンドロールも終わらへんうちに映画館を去っていきよって。詰まりに詰まった息を吐いたところで、ようやくわいは気付いた。
この映画の主題歌、わいが好きなアーティストや……って。
◆
「浮かねー顔してんな、ウタちゃん」
そん言葉で、わいの意識は映画館通りのファミレスに戻ってきた。対面に座る狼は、いつもながらほんまいけ好かん顔で、こっちを眺めよる。言うても、こいつぐらいしかまともに話が合う友人おらんから、今日もこうやって駄弁りに興じてるわけで。
「……別に、前に会った男んこと、思い出しとっただけや」
「へえ、何。誰か似てる人でもいた感じ?」
「さあな。多分見間違いやろ」
「つっても、誰かを思い出すなんて珍しいんじゃねーの。そんないい男だったん」
「ちゃうわ。逆や、逆」
鼻を鳴らしてそう言えば、向こうも「ああ、そういう」と同じように鼻を鳴らす。これだから、こいつといるのは楽なんやわ。
「それよか自分、留学どうこうはどうなっとんねや」
「そう急かすなって。梓馬くんも旅立ちに際して、色々と思うところあんのさ」
「思うところ、ねえ」
冷めつつある紅茶に手を付ける。付き合いの期間もそれなりにはなっとるが、未だにこの狼の考えはよう読めん。
「さっさと行きゃええのに。なんや、心残りでもあるんか」
「まぁ……あるっちゃあるっつーか」
若干言い澱んだ狼に向け、へ、と嘲りを入れる。心残りなんてどうせ、やけにご執心やった明石と赤木のバカップルのことやろ。そらまぁ、ああいう関係が羨ましいとか分かるけどな。何をそう構うんかね、わけわからんわ。
「なんだウタちゃん。気になってんの、梓馬くんの心残り」
「言わんでも分かるわ、くだらん」
「まぁそう言うなよ。お前だってあいつらのこと、嫌いじゃねえだろ?」
「…………」
ほんまこいつ、意地の悪い奴やな。わいの結論を知っとる上で、こないに訊いてきよる。
「……好かんわ」
「素直じゃねーなぁ、ウタちゃん」
「ほっとけ」
そう言い捨てて、えらいご機嫌な狼から視線を逸らした。窓の外は、むかっ腹が立つほどの春日和。長閑な雰囲気はあんま、胸に優しゅうない。
「もうすっかり春だな」
同じように外を見た狼は、なんとも言えへん表情でエスプレッソを啜った。それに合わして、もうカップの底まで冷えた紅茶に手を付けたところで、狼の目がこっちに向く。
「最初に会ったときから随分様変わりしたんじゃねえの、俺たち」
「なんや、唐突やな」
「だってよ、そっちから誘うなんて珍しいじゃん」
やたら満足げな顔に、こっちの顔が曲がる。そらそれは事実やけど。そんな表情させたろ思て呼び出したんとちゃうわ。
「ウタちゃんからのお誘いなんてレアもレアっしょ。梓馬くん、テンション上がっちゃって」
「涼しい眼してよう言いよるわ」
「そんで。ティータイムもそこそこに、今日は何しようっての」
「別に、ただ……」
少し目線を落とし、ヘッドフォンの先にある端末の表示を見る。最近聴いてばっかの曲のタイトルが、じろりとこっちを覗き返しよるのがなんか、ちょいおもろくて。
「……ただ、映画観とうなって」
「へえ、どんな」
「凡百のラブストーリーやけど……わいの好きなアーティストが主題歌やっとって」
「くはっ」
噴き出した狼をすかさず睨みつける。まぁ、こいつが意に介さないことなんざ知っとるが。
「やーっぱ変わったよな、ホント」
「うっさいわ」
「いいじゃねえか。今ならいい男の同伴付きだしよ」
「……お前の性格、すげー羨ましいわ」
二回目の映画。そんな、気に入ったんとちゃうのに。確かに変わったんかなとか思いつつ、わいは渋みの薄れた紅茶を飲み干した。