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あいつとシェアハウス 第二巻冒頭試し読み

 十九 女子たちに明日はない  昼間の編集部は切迫していた。あちこちで電話が鳴り響き、誰か急ぎ足で出て行ったかと思えば、別の誰かが毛を振り乱し室内に駆け込んでくる。日焼けで茶けた壁掛けカレンダーには、赤と黒のペンで予定がぎっしりと書き連ねられていた。  そんな、目まぐるしい世界の窓際。『相談室』とは名ばかりの物置同然のスペースで、やけに沈むソファに眉を顰めながら、あたしは手帳にペンを走らせる鹿に食って掛かる。 「どういうことですか」 「どうもこうも、こちらはそういう方針ってだけですが」 「でも、まだこれからってときに、そんな」 「それは誰だってそうでしょう」 「だけど、打ち切り……なんて」 「受け入れてください。私としても不本意なんですから」 「…………」  取り付く島のなさに、言葉を失う。不本意と言う割にやたら淡白な鹿を睨みつけたところで、結果が変わらないことなんか分かり切ってるけれど。舌打ちを噛み潰し、大人しく前傾気味だった姿勢を正す。随分と冷酷に嫌な響きを突きつけてくれるもんだ、全く。  作家と、担当編集。目の前にいる鉄仮面の鹿とはそういう間柄だった。年単位で面倒を見てくれた、と言えば聞こえはいいが、実際のところはよく分からない。現にこうして、共に培ってきた作品の終わりを、何の配慮もなく告げてくるのだから。 「……ところで、考えてくれましたか、例の件」  不貞腐れているのを察されたのか、鹿が露骨に話題を変えてくる。前々から提案されていたけれど、今日の今日まで先延ばしにしてきた例の件。返事をする気なんて更々なかったものの、打ち切り宣告を食らった作家としては一考せざるを得ない状況だった。 「諦めが悪いことは存じてますが、そろそろ検討してください」 「…………」 「僭越ですが。個人的な見解を申せば、決断は早いほうがいいかと」 「……何と言われようと、諦めませんから」 「ふむ、それは結構」  あくまで淡白な鹿は「では、また後日」と残し、自分のデスクへと戻っていく。喉で渋滞を起こしていた溜め息を吐き出しながら、力なくソファに背もたれを預ける。同時に、どこからか仄かに煙草の臭いがしてきて、つい顔が歪んだ。  踏ん張りどころ。正念場。伸るか反るか。そんな語群が脳内を飛び交っていくが、今一つピンとこない。崖っぷちというよりは、岸壁に生えた一枝に辛うじて引っ掛かってる、というような、そんな感じの。  いずれ、大きな岐路に立たされてることには違いなかった。幸い猶予はまだ……もう少しある。持ち前の諦めの悪さを良くも悪くも呪いながら、立ち上がって肩を落とす。 「…………」  出掛けに、涼しい顔で業務電話を掛ける鹿を一瞥し、ヤニ臭い編集部を後にした。そのまま人波に紛れ交差点で信号待ちをしていると、対岸で大学生らしき集団が騒いでいるのが見えて。不意に可愛らしくも騒がしい二人の隣人を思い出す。 ――考えてくれましたか、例の件。  担当の言葉が、宙を舞って空々しい晴天に吸われていった。信号が切り替わり、動き始めた群れの真っ只中で、零れ落ちた溜め息だけが確かだった。      ◆  外出がてら粗方の用事を済ませ、帰る頃にはもう夜になっていた。大して歩いてないのに、足が棒みたいだ。出不精というか、運動不足なせいかもしれないな。  ポケットから鍵を取り出し、玄関先に立つ。なんとなく横目で隣を窺うが、あの二人はまだ帰ってきてないようだった。背中に吹き付ける風が、どこか寒々しい。  無機質なアルミのドアを開き、「ただいまー」なんて言ってみる。返事なんかない。以前二人で暮らしていた名残が、まだ胸の底にこびりついてるだけだった。シューズボックスの上に鍵を抛り、靴を乱暴に脱ぎ捨てた。  自室の扉を開けてからが、あたしのいつものルーティン。  まずは雑然としたテーブルの上から髪留めを見つけ、髪を結う。  それからよそ行きの服を脱いで、ノースリーブとスウェットに着替える。  そしてデスクに向かい、チェアに胡坐を掻き、パソコンのスリープモードを解除する。  そこでようやく、ふうと一息。ああ、落ち着く。やっぱり適したスタイルに敵うものなんかないって、ありありと思い知れるぐらいにはしっくりきている。  脇にある伊達眼鏡をかけ、目を細めて起動を待った。ブルーライトカットのものらしいが、どうせ長時間やるんだから、効果で言えば正直焼け石に水だとは思う。傍らにあった食べかけのチョコをひとつ摘まみ、ぐいと背筋を伸ばした。  二つ目のチョコに手が伸びたところで、デフォルトのままのデスクトップが表示される。続けざまに、開きっぱなしだったテキストファイルが開かれ、ずらりと立ち並んだ文章が画面を覆い尽くした。  昨晩、勢い任せに書いた荒削りの文章を、読み直すところから作業は始まる。この時間はいつも少し憂鬱だ。大体ろくな文が書けていない。才能ってなんだろう、なんて世迷言を頭の片隅に浮かべながら、消したり書いたり、書いたり消したりを繰り返す。  ……一、二時間ほど悪戦苦闘したのち、駄目だ、とデスクに突っ伏した。もう、全然進みやしない。来週にはプロットをまとめて、あの無慈悲な担当に叩きつけてやらなきゃいけないのに。  卓上の時計は既に午後十一時を示していた。そういえば、昼食以降まともに食事を摂っていないような。こういう職に就いていると、どうにも生きることに無頓着になる。  とはいえ流石に、何かしらで腹を満たすべきかな。どっちみち作業は行き詰っているから、むしろ休憩したほうがいいとも思えるし。そう思いリビングに行けば、しんとした空気感が自分を出迎える。  自室と違い、やけに整理された室内。ここを散らかさないのは、あたしなりの矜持だった。あの子がいた痕跡が、今も残り香のようにそこかしこで燻っている気がして。 「私ね、彼氏できたんだ」  あのときの笑顔は、今でもよく覚えている。一年前の二月のことだった。ルームシェアの相手だった彼女がある日、嬉々とした様子でそう告げてきて。  確かに、大学時代から、どうして彼氏がいないのか分からないぐらい魅力的な子だったけれど。いざ報告されたとき、思いの外覚悟していなかった自分がそこにいた。  好きだった。奥手で引っ込み思案、だけど爛漫で、笑うと目元がくしゃっとなって。いつも、「お気に入りなんだ」って言ってた石鹸の香りがして。一緒に部屋を借りよう、なんて提案したときも、悩まず快諾してくれるような子で。  リビングに散りばめられた愛嬌のある小物は、まさしく彼女そのものだった。だからこそこの部屋を片付けられないし、散らかすことも出来ない。もう独りきりだっていうのに、新しく物を置くことすら躊躇う始末。  ……忘れなきゃ、いけないのにな。あの子が荷物をまとめて、愛する相手の元へ巣立っていったあの日、あたしは確かに失恋したんだ。  気分を変えるべく窓を開けたところで、ちょうど賑やかな声が聞こえてくる。帰って来たんだ、あの二人が。思わず窓際に凭れ、耳を顰める。 「だーから、なんでキッチンに来んだよお前」 「えー、俺もなんか手伝いたい」 「いいから座ってろっつーの」 「善ちゃんにばっかやらせて悪いしさ」  微笑ましいやり取りが、肌寒い夜風に乗ってこちらの部屋に吹き込んできた。少し寒いぐらいなのに、温かさすら覚える。お隣は普段から窓を開けてるらしく、こっちも窓を開ければ二人の会話はほとんど丸聞こえだった。彼らが気付いてるかは知らないけど。 「そうやってこの前、卵七つも割ったんだろうが」 「違う、六つだよ六つ」 「大差ねえから。パックに入ったままだったから、まだ何とかなったけど」 「でも割った卵で作ってくれたオムレツ、美味かったわ」 「そういうことじゃねえ」 「善ちゃん嬉しそう」 「うっせ」  こっちまで思わず笑いそうになる。うちのアパート、部屋自体は全部埋まってるものの、物静かな老夫婦とか、寝にだけ帰ってくるリーマンとか、そういう人ばっかで、しばらく静かだったから。少しぐらい騒々しいほうが、あたしとしても性に合ってる。  とはいえ素直に喜べない自分も、どこかに存在してるのは間違いなかった。それもこれも、自身の不甲斐なさが原因ではあるのだが。目を伏せて、昼間の話を思い起こす。 ――考えてくれましたか、例の件。  もう一年も前から言われてることだった。一般誌で上手くいかないあたしへの、アンダーグラウンドな提案。「先のなさそうな現状よりも、掲載誌を替えて挑戦したほうがいいかと」なんて、冷淡に言われたぐらいにして。  若い才能を買われて、既にいくつか本も出させてもらったはよかったが、売上が低迷してるのも事実。それでもどうにか長編小説を連載させてもらってたけど、とうとう打ち切り宣告まで食らってしまった。  しかしながら、だ。よりにもよってBL小説への転向を勧めてくるのは、予想外にもほどがある。いくら文体や作風が噛み合ってるからと言って、そう簡単にシフトして行ける世界ではないことぐらい、あの鹿も承知してるだろうに。  怖かった、自分の実力を思い知ってしまうことが。自信は正直ない。他ジャンルに移ってなお、立ち行かなくなった作家なんて、吐いて棄てるほど見てきたから。 「あっ」 「……またやりやがったな」  沈んだ気分のこちらとは対照的に、隣人たちはなおも賑やかだ。どうやらあの黒犬がまた何かしでかしたらしい。不機嫌な猫の小言が、耳元にちらほら飛び込んでくる。  本当に、彼らのおかげでずっと退屈してない。陰鬱としてた日常に、愉快な幻想が舞い込んできたみたいだった。部屋には一人なのに、窓を開けたら彼らがいるんだもの。一年分の憂鬱なんて、簡単にすっ飛んでいく。  そういえば、善人と大智がここへ越してきたのも一年前だったっけ。思うように書けず頭を抱えていたあの日、彼らはどたばたとあたしの目の前に現れて。 ――お引越し?  ああそうだ。二人を初めて見たとき、自分はなんてツイてるんだろう、なんて思ったんだ。二人の日々を参考にすれば、仮にBL作家に転向することになったとしても、ネタ出しに困ることはないだろう、と。  だけど、そんな浅はかな自分に降りかかってきたのは、あの悲痛な叫び。 ――俺が女だったら、お前は。  机上にあるメモ書きを、恨めしく睨みつける。他人の日常を切り取った代償は、やはり相応に重いものだった。それなりに書き溜められた数々のネタは、後ろめたさという形で背筋をひりつかせる。 「どうすんだよお前、冷蔵庫にもう卵ねえじゃねえか」 「あ……へへ」 「笑ってる場合か」  耳の先では相変わらず、彼らの無邪気なやり取りが響いている。それで殊更、自分の最低さに嫌気が差した。他人の事情に聴き耳を立てて、あろうことかそれを話の種にしようだなんて。自分だってマイノリティーの端くれのくせに……ホント、サイテー。  思い返せば、その後の対応だって酷いもんだった。観察していたことを棚に上げて、いつの間にか感情移入しちゃって。居ても立ってもいられなくなったから、偉そうに相談役まで買って出ちゃったりして。 ――なんか、好きなんすよねぇ。  単なる罪滅ぼし程度の心持ちだったけど、彼の真っ直ぐな言葉は存外眩しかった。他人様の日常を利用しようとした、ズタボロで薄汚い自分が、限りなく惨めに思えたぐらいには。  ……大層な空回りだ。知らず知らずのうちに、随分みっともないところまで落ち込んでしまったらしい。仕事も恋愛もこの有様。そうでなくたって、ただでさえ世間一般で言われている“まともな幸福”なんて、手に入る気がしないのに。 「……はぁ」  溜め息が零れると同時に、くうと腹が鳴った。色々と上手くいかなくたって、お腹は立派に空く。腹いせとばかりに例のメモ帳を破り捨て、キッチンへ向かう。兎にも角にも、何か食べなきゃな。  覗いたキッチンは、あたしの空腹なぞ知らないと言いたげなほど、殺風景の閑古鳥。開いた冷蔵庫はほぼ蛻の殻。買い出しをサボっていたツケが、ここで回って来たらしい。 「……卵」  唯一あったのは、賞味期限の近い卵が一パック。これでちょちょいと何か作れればいいものの、どうやらその気力も今の自分にはない。 「……仕方ない、か」  化粧を落としてなくてよかった。外出用の服に着替えると、財布だけ持って夜の住宅街へと繰り出す。最寄りのコンビニまでは徒歩数分だ。さくっと行って、何か買ってこよう。      ◆  ウィンと音を上げ、自動ドアが開く。いつもの店内、いつもの店員、いつもの商品、そして、疎らな客。当たり前だが、なんとも代わり映えしない。  かくいう自分もすっかり常連客の一員だった。近場のコンビニはここだけだし、スーパーまで足を伸ばすのはどうにも忍びない。ということで、どうしても横着してしまう。  いつも通り豚丼と、作業中摘まむためのさきいかを取る。女っ気が欠けすぎてて我ながら呆れるが、美味しいんだから仕方ない。そもそも、いわゆる女子力なんてものを上げたところで披露する場も相手もいないし。自虐が様になってきたのが何より悔やまれる。 「おろ、アネさん」  会計に向かうと、レジには大学生ぐらいの猿の子が立っていた。夜にコンビニに来るといつもいる子だ。独特な喋り口調の彼は、なぜかあたしのことをアネさんと呼んでくる。親しげに絡んでくれるのは嬉しいけど、正直こそばゆい。舎弟じゃあるまいし。 「相変わらずじじくせーラインナップじゃなぁ」 「もー、ほっといてよ」 「アネさん美人じゃのに。ギャップじゃな、ギャップ」  商品をレジに通しながら、へらへらと笑う。正直、話題的には余計なお世話だが、別段悪い気もしてない。気を良くしつつも「ホントかなぁ」なんて言ってみれば、「嘘は言っとらんぞー」と。社交辞令だろうけど、思わず頬も緩みがちになる。 「……ん?」  会計を終え、釣り銭を受け取ったところで、ふと背後に視線を感じた。ちらと振り返れば、雑誌棚の前の大柄で糸目の熊がこちらを窺っており。店に入ったときからいるけど、そういえば見かけない子だな。 「気になんけ」  商品の入った袋を差し出しながら、猿の彼が尋ねてくる。僅かに頷いて肯定すると、彼は誇らしげに口角を上げた。 「ダチなんじゃ、あいつ」 「へえ、友達」 「おうよ、高校んときからのな」 「なるほどねー」  言いながら再び振り返れば、噂の熊と目が合ったので、軽く会釈してみる。すると、向こうもしどろもどろにお辞儀を返してくれた。なるほど、見た目通り温厚そうな子だ。 「バイト終わるまで、ずたっと待っとる気なんじゃと。なかなかけったいな奴じゃわ」 「ふうん、仲良いんだ」 「じゃろ」  嬉しそうにドヤ顔を繰り出し、尻尾をうねらす店員くん。大学生ぐらいの子たちの無邪気な友情観って、ホント微笑ましい。荒んだ私生活も嘘のように癒されちゃう。 「でもバイト、いつ終わるの」 「おいは一時までじゃから……えー」  レジカウンターから身を乗り出して、人の腕時計を覗き込もうとしてくる。代わりに見てやれば、既に日付は変わっているようだった。流石にそろそろ帰るか。ついでに猿くんに時計を見せたところで、背後から気配がする。 「あれ、秋香さん」  目の前にいたのは、浮かない顔をした大智だった。しゅんと垂れ下がった尻尾が痛ましい。 「大智じゃん。どしたのこんな夜更けに」  白々しく尋ねるが、大方の予想はついていた。さっきの二人の会話、大智の凹んだ様子、そして、参ったなあと首筋を掻く仕草。これは多分。 「晩飯に使う卵、ミスって割っちゃって」 「あら、じゃあ善人に買ってこいってどやされちゃったわけか」 「そっすね……」  やっぱりか。あまりに予定調和すぎて、むしろ安心する。 「よお大智、久々じゃな」 「あれ、遊星。バイトこの日だっけか」 「いんや、今日は臨時じゃ。元々夜勤の奴が風邪引きおって、そんで」  賑々しく話す二人。どうやら顔見知りらしい。横で微笑んでいると、猿くんが大智とあたしを交互に見て、不思議そうに口を開く。 「そんよか二人、知り合いなんか」 「ん」 「ほれ、この、アネさんと」 「アネさん……?」  怪訝そうな大智のために、あたしは自分を指差した。ちゃんと察してくれたらしく、大智は小さく頷く。 「普通にお隣さんだけど」 「ほー、美人の隣に住むたあ、ちゃっかりしとんな」 「ちゃっかりって……偶然だわ、偶然」 「どうじゃろな」  どこからかおもむろにモップを取り出して、バイトくんはレジから出てくる。人が少ないから、この機に掃除でもするんだろうか。周りを見回すと、確かに客はあたしたちだけのようだった。大智も同じような感想を口にする。 「流石に客少ねーのな」 「そらそうじゃろ。何時じゃと思っとんじゃ」 「てかさ、遊星の喋り方、やっぱ不思議だよな」 「おろ……マジか。なんかそれ、色んな奴に言われんじゃが」  参ったなぁと頭を掻く彼がおかしくて、つい口角が上がる。多分方言なんだろうけど、色んな地方のが混ざってるみたいだ。 「親の転勤であちこち振り回されちまって、そんせいじゃろか」 「さあ」  あまりに気のない返事。自分で話題を振っといて、大智ってば。案の定猿の子は不満そうに大きな耳の裏を掻いている。やれやれ、誰にでもこんな感じなのね、大智。  呆れがちに溜め息を吐けば、視界の隅、バイトくんの胸元で揺れるプレートが目に入った。そういや割と話す仲なのに、名前は知らなかったな。  『不破遊星』と印字された名札。特に理由はないんだけど、どことなく猿っぽい名前だ。一人納得していると、なぜか自分の身体を探ってた大智が青ざめた顔で言う。 「やべ、財布忘れた」 「え」 「なんしに来たんじゃお前は」  来店時と同じように、再び首筋を掻く大智。ホント、遊星の言う通りだ。すっかり意気消沈してる大智がおかしくて、なんだか笑ってしまう。 「あ、秋香さん、何も笑わなくたって」 「ごめんごめん、あっはは」  堪え切れず声を上げれば、それを自動ドアの音が遮ってくる。駆け込んできたのは、不機嫌な表情を携えた、予想通りの人物。ああほら、やっぱり来た。息を切らした様子の猫は、二つ折りの財布を片手に、慌てふためく黒犬を睨みつける。 「ぜ、善ちゃん」 「てめえ、財布忘れてお使い行くアホがどこにいんだよ」  呼吸も整えずまくし立てる善人。そして財布を投げ渡し、そのままの勢いで大智をどついた。途端に、周囲が妙な安寧に包まれる。 「ちゃんと持ってけっつーの」 「あ、うん、悪い」 「ったく……って、げ」  一息ついた善人は、レジのほうを見て顔を顰める。視線の先には、満面の笑みの猿。 「おう猫助、御無沙汰じゃなー」 「……猫助はやめろ」 「なんでじゃ、かわええのに」 「可愛くねえから」 「えー、可愛いじゃん、猫助」 「だから可愛くねえって」  猫助。不意に現れたワードにきょとんとするが、それはすぐに笑いに昇華された。どこに行っても善人は面白い扱いを受けているらしい。三人の応酬を和やかに見守っていると、不意に会話が途切れたので、先ほどから頭に浮かんでいる疑問を何気なく投じてみる。 「ところで皆、どういう仲なの」 「ん、おいとこいつらか。タメじゃ、タメ」 「なんか大学一緒らしいんすよ、多分」 「多分なの」 「うちの大学、棟が分かれてっから、学部違うと全然見かけないんすよね」  へえ、と相槌を打った。元々大学生が多い地域とはいえ、こうも世間が狭いとは。誰彼とおちおち知り合ってられないな。 「いいから大智、早く用済ませて帰んぞ」 「でも、善ちゃん来たばっかりじゃん」 「お前が腹減ったってうるせえから今作ってる最中なんだろうが」 「あ、そっか」  呆れ極まる善人に、温かい眼差しを向ける。相も変わらず振り回されまくってるな。でもしょうがない。それが惚れた弱味でもあり、楽しみでもあるんだから。 「んで、お前ら。結局何の用で来たんじゃ」 「あ、そうだそうだ。卵買いに来たんだよ、卵」 「卵ならねえが」 「は?」 「売り切れた」 「マジ?」 「マジじゃが」 「なんで?」 「なんでも」 「どうしても?」 「しつっけえな。ねえもんはねえわ」 「……これじゃ財布、届けた意味ねえな」 「ま、ご愁傷様ってやつじゃ」  せせら笑う遊星の一言に、二人は揃って肩を落とす。そして善人が「……帰るぞ」と大智を引っ張ったのに便乗して、あたしも帰ることにした。二人の後に続く形で店を出て、先を歩く彼らを眺める。 「つーわけで、オムレツはナシだな」 「うー、マジか。食いたかったんだけどなぁ」 「お前が卵割るからだろ」 「そりゃ分かってるけどさ」  静まり返った路地を、文字通りとぼとぼと歩く二人。思ったよりも大きな二つ並んだ背中を見て、溜め息が漏れる。この付かず離れずの距離感が、無性に愛おしく思える。  この優しい非日常を、どうして穢せようか。邪に綴られた例のメモ帳が腹立たしくなるぐらいには、彼らの日常に絆されてしまってるのに。 「ねえ、二人とも」  呼び掛ければ、二人同時に振り向いてくれる。薄明かりの電灯に照らされて、淡くなった横顔が、やけに暗闇に映えていて。 「……卵、あげるよ」 「え」 「家に何個かあるしさ。あたし、多分食べないし」 「でも」 「いいからいいから、日頃のお礼だと思って」 「えっ」 「お礼?」 「……ふふ」  首を傾げる二人を追い越し、歩き慣れた道を往く。顔は笑んで、足取りは軽め。なのに地面に落ちた街灯の灯りを、なんとなく避けてしまう自分が、なんだか不甲斐なかった。      ◆  休日のショッピングモールは実に目まぐるしい。それも昼時となれば尚更である。子供の走り回る音、ティーンズのはしゃぐ声、ママ友グループの賑やかなお喋り。身を取り巻く騒々しさの中で、あたしは端末に表示された画面を眺めながら歩く。 「遊びに行きませんか」  ほんの数日前に、おもむろに送られてきたメッセージ。少し悩んだが、忙しい友人からの貴重なお誘いだ。プロット提出の締切なんか考えてる場合じゃない。  友人……彼女とも、気付けば数年の付き合いだった。出会いはネット上だったのに、意外と関係って続くもんだ。趣味で出来た繋がりは強いなんて聞くけど、あながちホントかもしれない、とか思ったり――。 「あっ」 ――考え事をしてたせいか、前方から歩いてきた女性とすれ違い様にぶつかった。よろけて柱にぶつかったその人に向け、慌てて声を上げる。 「す、すみません。あたしの不注意で」 「いえ、いえ。大丈夫ですから、はい……」  随分と質素な服装のクロヒョウの女性は、こちらを見向きもせず再び歩き出した。明らかに虚ろな表情だったが、ホントに大丈夫なんだろうか。 「アキさん」  心配そうにその後ろ姿を見送っていると、不意に名前を呼ばれた。この、張りのある凛とした声。待ち合わせ場所にはまだ遠いが、運よく合流できたらしい。振り返って、あたしも名前を呼ぶ。 「アオちゃん」 「お久しぶりです、アキさん」  そこにいたのは、丸眼鏡が特徴的な女の子。白のカットソーに水色のワンピ、手にはボーダーの手提げバッグ。いかにもガーリーなファッションの彼女は、どうにも眩しかった。  対する自分のほうと言えば。キャップにシャツにジーパンのメンズライク。これではボーイッシュを通り越して、いっそボーイって感じだ。いつもの長髪も今日は結んでるから余計に。いくら友人相手だからって、着飾る気が一切ないのも考え物だった。 「えーと、どこから行こっか」 「せっかくですし服とか見ませんか、服」 「服かぁ、そういや最近買ってないなー」  さもない会話をしながら、モールを歩き始める。平日だと言うのに、やたら人が多い気がした。なんとなく時計に目をやれば、時刻は正午少し前。この混雑具合じゃ、優雅にショッピングとはいかなそうだ。 「その腕時計、可愛いですね」 「え。ああ、これ」  アオちゃんに言われ、再び腕に目をやる。ボーイッシュな格好に不釣り合いな、ピンクの小さな腕時計。愛くるしい一品には違いないが、あたしにはどうも似合ってなかった。それでもこれを、何かの呪いのように身に着けてしまうのは。 「……貰い物だよ、貰い物」 「誰からですか。もしかして、大事な人とか」 「んー、はは。まぁそんな感じ」  大事な人。文章上では何度も記したこの言葉を、いざ当事者になって聞いてみたら、なんて使い勝手のいいワードなんだろうと思い知った。性別も関係性も凌駕して、自分にとってどんな存在かを端的に言い表すことができる。もちろん、はぐらかすときにも。 「なんか、ワケありって顔してますね」 「え、そう?」 「遠い目でしたよ」 「あはは、ホントに」  上辺は笑顔だったが、内心気が気じゃなかった。アオちゃんはやけに鼻が利く上、勘もやたら鋭い。流石にあたしの思い浮かべていた人が、まさか同性だとは思ってないだろうけど、この洞察力は相変わらず油断ならない。 「あ、ほら、アキさん。そこにアパレルショップありますよ」  あたしの渇いた笑いを見破ったのか否か、アオちゃんはすぐさま話題を逸らす。即座に気を回せるあたり、抜け目がなくて末恐ろしい。ふうと息をつき、彼女の指差した先を見たところで、目の前を家族連れが通り過ぎていく。  洒落た様子の黒犬の男性と、同じく品の良さそうな狼の女性。そして、その間を無邪気に歩く、お父さん似の子供。女性のほうから匂ってきた、ブランド物の香水の残り香が、やたら鼻をつついてきて。無意識にマズルを顰める。  あれが、世間が描く幸せの形。自分とは縁遠い世界の、御伽話。それを頭で理解しているとはいえ、それなりに落ち込みはする。世間の大半が味わう普通とやらが、どんな味か。興味と感傷とが半々になって、息苦しく胸元で渦巻いていく。 「……そういえば、私もいたんですよ、大事な人 「えっ」  アパレルショップへと向かう足を止め、不意に話題を元に戻すアオちゃん。驚いて振り返れば、先ほどの家族の後姿を目で追う彼女がいて。 「私、その人と付き合ってたんです。中学のとき、ほんの短い間でしたけど」 「中学、か。なんだか甘酸っぱい話だね」 「というより、無味無臭……でした」 「ぷ、何それ」 「当時は味も臭いもあったはずなのに、思い出せないんですよねー」  顎に手を当て考える素振りをしながら、彼女は明朗に語る。このぐらい割り切った生き方が、自分にもできたなら。もう少しぐらい溌剌と日々を過ごせるだろうに。 「そうそう、実はその人と再会したんですよ、数か月前に」  へえ、と鼻を鳴らした。そういう偶然って、意外とあるものなんだろうか。事実は小説よりも奇なり、なんて、作家ながらに思ってみたりする。 「で、なんか、恋愛関係のことでちょっと相談されちゃって」 「え、ちょっと、それ本当?」 「いいんです別に。相手も悩み果ててたみたいだし」  彼女はそう言うけれど。いくらなんでも元カノに恋愛相談とは、俄かには信じられない感性だ。デリカシーという単語の意味を辞書で引きたくなってくる。 「だから、そいつの手、握ってやったんですよ」 「にぎ……え?」 「こう、ぎゅーっと、思いっきり」  顔をくしゃりと歪ませて、彼女は店のマネキンの手を握った。別にいいなんて言いながら、結構したたかだな、この子。狙ってやったんだとしたら、相手もさぞ困ったに違いない。 「まぁ、効果はいまひとつだったんですけど」 「……なるほど。お相手はよっぽど鈍チンだったってわけ」 「いいんですって。あれでお互い、今はもう友人だって、はっきりしたんですから」 「友人、ねえ」  そういうものなのかな。アオちゃんがあまりにも淡々と話すから、あたしの恋愛観が湿っぽいだけな気もしてくる。あまり自覚はないけれど。 「でも不思議ですよね」 「ん?」 「あのとき心の中を満たしてた感情が、今は欠片も残ってないって」 「…………」 「どこ行ったんだろうって、なんで無いんだろうって、思うんですよ」  少し寂しそうな声色だった。それを聞いて、安易に羨ましがった自分がなんだか恥ずかしくなる。好きでそうやって生きてるんじゃない。彼女もあたしと同じように、そういう風にしか生きられないんだ。 「まぁ多分、私が変わってるんです。ずっと変な子って言われてきましたし」 「そんなことないって、アオちゃん」 「だけどアキさんは、その人のことちゃんと想ってるじゃないですか」 「…………」  善意からかそう言われ、無言で腕時計に触れた。思い浮かぶのは、可愛い小物で溢れる小奇麗な室内と、物がガサツに散漫した自分の部屋。  あたしは本当に、ちゃんとあの子のことを想ってるんだろうか。惰性とか習慣とか、そういう類のものじゃないって言い切れるだろうか。保証は、根拠は。人を想う心地よさに縋ってないって、はたして。  だってもう、あの子は別の誰かの“大事な人”なのに。 「そうだね……うん、そうだよ」 「アキさん?」  訝しむアオちゃんの傍らで、あたしは腕時計を外す。消し去ってしまう人だっていれば、いつまでも抱え続ける人だっている。どっちが正しいかなんて、分かるわけがない。それならせめて、いい思い出にしてしまおうと。 「……ちゃんと、想わなくちゃね」  外したそれをハンカチに包み、肩掛け鞄の奥に丁寧に仕舞い込む。あたしの“大事だった人”は、とっくの昔に前に進んでしまった。あの子がそうしたなら、自分も立ち止まってる場合じゃない。  第一、こんな呪いの道具みたいな使われ方、あの子は望んでないはずだ。着けるも外すも、あたしの自由。贈られたもの、残されたものに、過剰な想いを詰め込んじゃいけない。 「アオちゃん」 「え、はい」 「ちょっと時計店行くから付き合って」 「時計店って、まさか」 「新調する、腕時計」  彼女は困惑してるようだったが、思い立ったらさっさと行動したほうがいい。考え込んで動けない毎日なんて、もうまっぴらだ。 「アキさんがそう言うなら、私は構いませんけど……」 「ありがと」  察しが良くて助かる。唐突な意気込みと共に時計店のほうへ向かおうとした矢先、ポケットで端末が震えた。届いた通知をおもむろに表示させれば、あの子からの画像が一枚。それを見て、胸元に熱が込み上げてくる。 「……アオちゃん」 「なんですか」 「買わなきゃないもの、増えちゃった」  悲しさも虚しさもない。あるのはただ、慶び。自然と綻んだ自分の頬に安堵しながら、あたしは端末をポケットに戻す。  かつて恋い焦がれたあの子と、その子の大事な人。そしてその間で、無垢なる表情を見せる赤ん坊。今日産まれたひとつの家族が、和やかに笑い合う写真を、画面に表示させたままで。      ◆  それから、数日後。煙草の煙の量と比例するが如く、空気をピリつかせた編集部の隅、更に物が増えた応接スペースで、あたしと鹿はくたびれたソファに腰を据え対峙する。 「確かに」  受け取った最後の原稿を念入りに確認すると、鹿は小さく頷いた。それを脇に置いて、ここからが本題だとばかりに、彼は指を組んで息をつく。 「それで、考えていただけましたか」 「…………」  ほら来た。ふうと一呼吸置いたのち、鞄から大きめの封筒を取り出す。そして手際よく封を解き、『設定資料』と記された何頁もあるいくつもの紙の束をボロテーブルの上にぶちまけた。鹿の唖然とした顔で、正直胸が空く思いだ。 「これは」 「次回作のプロットですけど」 「……あなたは意地っ張りですね、本当に」  散らばった資料を整え、興味深そうに口角を上げる鹿。飾り気のない黒の腕時計を擦りながら、前のめりになって言い放つ。 「あたし、諦めませんから」 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□  十九話はここまでとなります。  続きは文庫版『あいつとシェアハウス 第二巻』(鋭意制作中)にて。

あいつとシェアハウス 第二巻冒頭試し読み

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