■ちょっとの冒険
「んー」
鏡の前で唸り続けて、早十数分。年季の入った丸眼鏡を、何度も付けたり外したり。約束の時間は刻一刻と迫っているのに、なかなか決まらない。
「……どうしよ」
自分にここまで決断力がないとは思わなかった。普段なら即断即決、悩んでる時間が勿体ないとすら考えてるのに。こればっかりはちょっと、どうにも難しくて。
今日はデート。もちろん睦樹くんからの誘い。しかも今回は、機会を計って、弟くんたちや遊星くんの賑やかしもない。久々に、正真正銘の二人きりなのだ。そりゃ一介の乙女としては、気合だって入ってしまうというもの。
「…………」
でも正直なところ、私は揺らいでいた。理由は、先日観たドラマのせい。内容的には、地味な女主人公が眼鏡を外しイメチェンする、なんて他愛もないものだったけど。
別に、魅力的に映ったわけじゃない。気を衒ったわけでもない。それはただ、特別じゃない子がなんとなく陥りがちな、未知なる自分への憧憬。まぁ要は、このせっかくの日取りに、普段と違う自分を演出してみたくなって。
いつもの丸眼鏡を取り払い、コンタクトを装着する。言ってしまえばそれだけのこと。だけど冴えない私には、十分な挑戦。
似合うかな、似合わないかな。気に入ってもらえるかな。もしかしたら、特に反応してもらえなかったりして。とにかくもう、考えすぎで頭がパンクしそうだった。というかこんな、俗っぽいことで悩む日が自分に来るなんて。
鏡越し、急かすように秒針は進む。そろそろ家を出ないといけない時間だった。待ち合わせに遅れる失態だけは避けたい。つまりここが、決断の時。
「…………」
私は丸眼鏡をケースに仕舞うと、鞄に放り入れて立ち上がった。大丈夫、きっと。そもそも睦樹くんのことだ、私がどんな格好で行こうと多分喜んでくれる。だったら少しぐらい、冒険心を抱いたっていいじゃん。
最後に鏡で全身をチェックし、髪の毛を手櫛で軽く整えると、ヨシと意気込んだ。今日は目一杯、楽しんでやる。
◆
駅前の広場。そこにある、妙な形のモニュメントが待ち合わせ場所だった。目的地に近づくにつれて、心臓が唸りを上げていく。喩えが酷いけど、ブルドーザーみたいな轟音。
睦樹くんは一足先に到着していたようだった。付近をきょろきょろ見回しながら、着慣れないガウンコートの裾をひっきりなしに触っている。
いつもならその可愛さに悶えてるところなのに、生憎こっちもそれどころじゃない。乱れそうな息を整えつつ、自然体を装って踏み出せば、その瞬間彼と目が合った。胸のブルドーザーが飛び跳ねる。
「葵ちゃ……あれっ」
駆け寄ってきた太めの熊は、糸目を少し見開いて私を見下ろした。肩を窄め目を逸らすも、期待と不安は表情に出てしまう。どうかな、と顔を上げたところで、睦樹くんの声が響いた。
「どうしたの、眼鏡」
「あ、わ……忘れちゃって」
「え、ホントそれ。大変じゃんか」
……なんだか予想外の展開。ひょっとしなくてもこれ、明らかに裏目に出てるような。やっぱり身の丈に合わない冒険なんかするんじゃなかったかな。
「取りに戻ろう。今日は急ぎの用ってわけでもないし」
「い、いいよ、大丈夫。ちょっと視界がぼやけるぐらいだから」
ホントは睦樹くんの心配そうな顔も、はっきりくっきり見えてるけど。残念ながら今更、実はただの気の迷いでしたー、だなんて明かせるはずもなくて。
「ほら、とにかく行こ。電車来ちゃうしさ」
「う、うん……」
内心の気まずさは一入だった。それを誤魔化すべく、睦樹くんに先導して足を踏み出すと、不意に腕をきゅっと掴まれる。
「え?」
「あ、危ない、から」
小声でそう言うと、睦樹くんは宙に浮いた私の掌に自分の手を不器用に滑り込ませ、ぐっと握り締めた。途端に、ブルドーザーが再び駆動音を上げる。
「……行こっか」
「う、うん……」
引かれるまま、出会った頃より随分頼もしくなった背中に連れられ、歩き出す。周囲の視線も厭わず、少し頬を赤らめて。この手に汗が滲まないことを、ひたすらに願いながら。
「……ふふ」
ふらふらと駅の構内を進みつつ、朝方の無謀な私に感謝する。明瞭な視界に、しかと繋がれた手を捉え、気付かれぬよう薄らと微笑む。些細な冒険の結果はちょっと、予想とは違うものだったけれど。これはこれで大成功、ってことで。
あ、でも。熱に浮かれるのはまだ早いみたい。腕をぐっと引き、勇み足の彼を引き留める。
「睦樹くん、そっち違うホームだよ」
「えっ……あっ」