誰かが言っていた気がする。それは長いトンネルを抜けるようなものだと。
大きく口を開けた、深い空白の中。穴ぼこの心の淵にしがみつきながら、足掻いて、藻掻いて。ようやく脳裏に浮かんだのは、朧気な温もりと、柔らかくて力強い拳。
「どうした善人、自分の手なんか見つめて」
研究室の自分の席で物思いに耽る俺を、背後から現れた豹は半笑いで覗き込んできた。どうやら、明日の発表のための資料作りが終わったらしい。最初は悪戦苦闘していたくせに、近頃は涼しい顔で表計算ソフトなんかを扱ってやがる。要領がよくて羨ましいったら。
「ぼーっとしてても資料はできないぞ」
豹に続けるように横から口出してきたのは、教授から渡された参考資料に目を通す馬だった。平積みされた膨大な書物を見たとき、俺と泰利は揃って表情を濁らせていたが、当の悟は「普段の読書がこっちに代わるだけだ」なんて言ってたのを覚えてる。
「それは分かってっけどよ……」
そんな中、俺はと言えば。発表は微妙、教授や院生の先輩の評価も鳴かず飛ばず、色々なことがパッとせずも、のらりくらりと日々を誤魔化して今日まで過ごしており。友人二人がそこそこ順調そうに思えるだけに、余計に凹む。
机に突っ伏して、ごちゃごちゃと情報が散らけた画面を恨めしく睨みつける。雑多に開かれたウインドウの群れに紛れた、まっさらな文書作成ソフトの窓。なんだか自分の胸中でも眺めてるみたいで、数秒もしないうちに耳の根元を掻きながら目を伏せた。
掴めそうで、掴めない。分かりそうで、分からない。思い出せそうで……難しい。幾度となくあの映画を観ても、一番大事な部分が欠けたままのパズルを解いてるような気分で。
起き上がって、今度は背もたれに体重を預け、握りしめた右手を眺める。せめてあの、拳の先を見ることが叶ったなら。漠然と揺れる輪郭が、形を帯びてくれたなら。
「なあ」
「ん?」
「俺とあいつ……ってさ、なんかなかったっけ」
「あいつ……ああ、大智のことか」
「なんかって、何がだよ」
「いやほら、いつもやってるなんか、合図とかやり取りとか、そういうの」
意見を求めつつ、なんて曖昧なんだろう、と我ながら思った。案の定、悟も泰利も困惑した様子で目配せし合っている。
「なんか……って、言われてもなー」
「改めて考えてみると、あまり思いつかないな」
「……だよなぁ」
「やっぱり、駄目そうなのか」
会話の流れに乗せ、ぽつりと悟が呟く。俺は返事の代わりに頬を歪ませた。三人しかいない室内は、俺たちが黙り込むことで途端に静寂に襲われてしまう。もどかしさに溜め息をつけば、泰利が後頭部を掻いて言う。
「なんとか力にはなりてーけど……正直どうすりゃいいのやら」
「理想としては、大智と一緒にいるのが一番の近道とは思うが」
「…………」
「あー……帰ってないんだもんな、今も」
二人分の視線が痛い。別に責められてるわけじゃないって、分かってはいるけど。梓馬に借りた衣服に身を包んでる自分が、途方もなく滑稽に映ってるんじゃないかって。
記憶を戻したいなら、あの黒犬と向き合うべき。そんなの、考えるまでもなく知れてることだった。胸の空洞の奥底にいるのは、間違いなくあいつで。だけどそれを理解してても、相変わらず幻覚でも見させられてるかのような心地で。
多分、自分で辿り着かなきゃいけないんだろう。誰かにもらった地図なんか見ず、与えられた灯りなんか使わず、手探りを繰り返してでも自分で、そこまで。
……頭ではこんなに分かってるのに。未だにあいつの顔を見ることも能わないのは。
――善ちゃん!
あの日振り解いた温もりが、鮮明に肌に焼き付いているのは。
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