ミンキーモモを描きながら、大好きな43話「いつか王子様が」と46話「夢のフェナリナーサ」を繰り返し見ていました。
それにしてもミンキーモモ
どうして監督は何億円もかける美少女アニメで
あのENDで物語を作ろうと決心したんでしょうか
なにを我々子どもたちに訴えたかったのか。
富野監督とか虚淵脚本とかよりもっと凄い闇を感じます。
そんなにこの世界に絶望してたんでしょうか。
今改めてミンキーモモの神回「いつか王子様が」を何周か見てるうちに、今更気がついたことが。
モモが自分の恋のために、無数の一般人を見捨ててた話なんだなと。
モモも視聴者もそのことを気がついてないんだけど
おそらく監督と脚本家は意識的にやってます。
あの話でモモは一番最初から走り回ってて
「この地球にはなんて困ってる人がたくさんいるんだろう…やらねば!」とモモは人助けのために奔走してるんです。
そもそも人間に夢を取り戻させるためにモモって地球にやってきてて、1話前には世界大戦で人類が滅びそうになっててそれを食い止めてるんですが
でもこの「いつか王子様が」の話の怖い所は
そのモモがある青年に出会って、人助けで走り回らなきゃいけない大変な時に、モモの頭から(人助けが)完全に吹っ飛んでること。
自分のことを青年に「ただの女の子」と紹介し後は使命を忘れてひたすら恋一筋になってしまうんです。
最初の助けなきゃいけない人々のことは、その話では結局終わりまで消え去ってしまう。
結局お話の中ではモモは恋を諦め、前に向かって走り出す所で終わるんですが
その2話後にモモは魔法の力を失い、その次の話で
モモはあの終りを迎えます。
モモはこの話で致命的なミスを行い、助けなきゃいけない人々を見捨ててしまったために。地球がもう取り返しのつかない所迄進んでしまったのでは。
考えてみれば「いつか王子様が」で初めてモモは自我をもって自分のエゴのために動いてる気がします。
そして1部最終回「夢のフェナリナーサ」でモモが眠りながら何を願ったかというと「大人になった自分」で「果たしたい夢」なんでよね。これもエゴです。
僕はこれまで、眠っている「夢のフェナリナーサ」のモモが何を願っているかは、これから見つけていくみたいな淡いものかと思ってたんだすが、実はモモはあの終わりを経て、モモはもう自分のために生きていくことを決心してるから。自分の夢、あの恋した青年とまた巡り逢い、想いを果たすことなのかもしれないなぁと思ってしまいました。
青年が18歳として、モモが18歳になったときなら36歳とのカップルだから無理ではないですよね。
監督は結局何故あの終わりをモモに迎えさせなければならなかったのか、「自分の恋」を捨て「人類を」見捨てたそして「青年から」も去りました。
モモは「いつか王子様が」で3つの愛をないがしろにする大罪を犯していると考えます。
だからなんでしょうか?
使命に生きると全部を失いかねない。女の子が女性になりが目指すべきは絵本や幻想世界のフワフワしたものじゃなく「命短し恋せよ乙女」で恋と同時に夢と希望を自分の力で掴み、子どもと一緒に夢と幻想世界を育むんだよというメッセージで。
つまり 夢見る子供の時を捨て去り大人にならねばならない。それをあのENDで表現んしたのかも
と、今思いつく限りを考えてみましたが
監督や脚本家が何故モモをあの話にして皆に届けようとスタートさせたのか
やっぱり謎なのです。
トミノ監督や虚淵脚本よりももっと闇でこの世界を
表現したのかもしれないですね
もっと、世の人はミンキーモモを分析すべきなのかもです。
などと震撼を感じた「いつか王子様が」をモモを描きながら見た日なのでした。