歯ブラシの屈辱 前編
Added 2024-03-30 05:00:00 +0000 UTC「ごめんなさい! 悪気はなかったの、許して!」 「いいやだめだ! 悪気がないっていう時点で嘘だろ⁈」 目のまえで鳴きながら謝る女性に対して、俺はきっぱりとノーを突き付ける。 本来ならばわんわん泣く女性に手を出すのは論外の所業だが、今回ばかりは俺に正義がある。 先ほどこのあたりの通りを歩いていた矢先に、ふらりとすれ違ったこの女。慣れた手つきで、俺の財布をかすめ取ったのだ。相手が俺でなければ、まずスられていたことだろう。 「許してください! ほんの出来心だったんですっ! 警察だけは勘弁してください!」 路地裏で土下座までしてくるその姿は、はたから見ればこっちが悪者のようにすら思えてくる。 人の謝罪に厳しく当たれないのは俺の悪癖だったが、今回ばかりはそういうわけにもいかない。 「お前なあ。あんなに上手にスリをやれる奴が、出来心なわけないだろ。スリか万引きの常習犯じゃないのか?」 「……っ!」 おっと、図星だったらしい。まあ、誇るほどのことでもあるまい。誰だってわかる。 「さて、警察警察……」 「ひいいっ!」 顔いっぱいに涙をためたこの女は、俺の膝に縋りつく。 「お願いですっ、何でもするから、警察だけは許してくださいっ……」 「……いや、だから」 「おねがいしますううっ!」 ……そもそも、こんな風に泣き叫ぶくらいなら、最初から悪いことをするなって話ではある。 「これ以上被害者を増やすわけにはいかないし、一度刑務所に行って、しっかり反省して―」 とまあ、正義感の強い俺は、そうやすやすと流すつもりだったのだが…… 「なんでもしますからっ、お願いしますっ!」 「法の裁きを受けてしっかりと更生すれば、もっとまっとうな人生を送れるはずだから……え? 今なんでもするって言った?」 「い、いいました……」 そして、ちらりと胸元をはだけさせる女。 ……なるほど。 「ほんとに、何でもするの?」 「も、もちろんですっ」 少し恥ずかしそうに、しかし、大きく必死にうなづいて。 ……へえ。本当に何でもやってくれるらしい。 「そ、そうか、じゃあ……」 俺の正義感がぐらつく音を聞いて、目の前の女性が悪い笑みを浮かべ…… 「ちょうど歯ブラシが欲しかったんだよな。新しいのが欲しかったから」 「……へ?」 俺が言った矢先、女性はきょとんとして。 「え……? きゃあああああっ!」 悪い笑みを浮かべていた女性は直後、まばゆい光に飲み込まれた。 そもそも、悪いことをした人間は、しっかり反省して更生するべきなのだ。できることなら刑務所の中が望ましい。 それでもまあ、俺の前で何でもするとまで言ってのけるのならば、それに応じて何かしらをしてあげるのが俺という生き物である。 そして、さっきまで大泣きしていたくせに、胸元をはだけさせてくるその手際の良さ。さぞかしこういう修羅場も乗り越えてきたに違いない。 「今までもそんな感じで媚を売って、見逃されてきたんだろう。基本的にそういう戦術は虫唾が奔るんだが、ここまでくれば逆に哀れだ」 (……っ!) 俺の言葉に、しかし、頷く声も驚く声も、どこからも上がらない。 というか、さっきまで目のまえにいたはずの女性の姿が、どこにもいなくなっている。 「まあ、実際は俺の手元にいるんだけどな。いや、居るというより……あるんだけど」 (~~~~~~っ!) 路地裏から大通りに出た俺の手には、先ほどまでもっていなかったはずの歯ブラシが握られていて。 まるで、その歯ブラシは、混乱しているように、声を上げているかのように、小刻みに震えていた。 いうまでもないことではあるが、先ほどの女性はどこにもいない。はてさて、どういうことだろうか? 制限時間は三十秒。ヒントは俺が持っている歯ブラシだ。 まるで意志を持ったかのようにブルブルと震えているそれは、明らかに尋常じゃない事態に怯えているように見える。おれがつーっ、とブラシの部分に指の腹を当てると、ビクン、っと、一度痙攣することまで忘れない。 まるで、感度の高い女の子のような、悶えるような反応の歯ブラシ。 さあさあ、制限時間はもうすぐ終わりだ。頭を柔らかくして、常識を捨てて考えてみるといい。 ……まあ、どこのクイズ王でも、理屈っぽい奴には絶対に分からないだろうけど。こんなやり方。俺以外にそうそうできるもんじゃあないとは思うけれども。