NokiMo
あいまり
あいまり

fanbox


【先行公開】叛逆の刃が折れる時 三人目【後編】

 アインの幼少期は、色の無い……黒と灰色の二色しか存在しない世界での記憶で埋め尽くされていた。  そもそも、彼女は物心ついた頃から、厳しい英才教育を受けてきた。  朝起きてから夜眠るまで、食事や入浴以外のほぼ全ての時間を国政に必要な勉強の時間に費やしていた。  いずれ国の大臣を務める両親の後を継ぐ為に、それに必要なスキルを得る為の勉強ばかりの生活だった。  しかし、家族以外の人間と関わったことが無い訳では無い。  ……と言っても、両親の知り合いの貴族や王族との、上辺だけの交流ではあるが。  物心ついた時から、自分の地位や名声の為に容赦なく他人を利用し蹴落とす大人達の姿を見てきたアインは、次第に心を閉ざすようになっていった。  世界には、自分に害を成す黒い人間か、自分には害の無い限りなく黒に近い灰色の人間しかいないと考えるようになった。  その結果、彼女自身も誰かに心を開いて親しくなるようなことはせず、上辺のみを取り繕った広く浅い人間関係を構築するようになった。  だからこそ、騎士団長である父を真っ直ぐに慕い、多くの人の幸せを願う心優しい性格を持ったイエラの存在は大きかった。  社交界で人間の穢れた一面を知って心を閉ざしていたアインにとって、穢れの無い純真な心を持ったイエラは、眩しくも温かい存在だった。  母親の死をきっかけにヴェーチェル家に預けられたイエラは、その温かい心で凝り固まったアインの心を溶かし、暗闇に閉ざされた彼女の心に光を与えた。  黒か灰色しか無かった彼女の世界に、彩りを与えた。  イエラに救われたその時から、アインは、今後どんなことがあってもイエラの力になることを決めた。  例え世界の全てがイエラの敵になろうとも、自分だけは、最期まで彼女の味方で居続けることを心に誓った。  だからこそ、イエラが革命軍を立ち上げた時、アインは真っ先に革命軍への加盟の意志を表明した。  しかし、そんな彼女でも、今回の件に関してはあまり気乗りしていなかった。  イエラの頼みだった為に断り切れずに渋々承諾してしまったが、やはり、クランが自分に心の内を明かすとは思えないのだ。  クランが自分に心を開いているという話自体未だに信じられないし、何より、彼女の心に寄り添いその心中を聞き出すなんてことは到底不可能だと思った。  出来ると言ってくれたイエラの言葉を疑いたくないが……イエラと会うまでの自分の性格を考えると、どうしても、自分はクランの心に寄り添えるような立派な人間ではないと考えてしまった。  ──ダメね。完全に後ろ向きな考え方になってる。  ──ラキが今日中にはクランが私の元に来ると言っていたし……気持ちを切り替えなくちゃ……。  革命軍本拠地内にある参謀室にて、アインはそんな風に考えながら自身の眉間を押さえ、ふぅ……と一つ息をついた。  クランが自分の元に来るまでの間手持ち無沙汰だった為に、各部門から提出された今月の物資の消費量や来月の希望補充量等についての書類を纏めていたのだが、如何せん例の一件が気掛かりで集中できずにいた。  今からでも無かったことに出来ないだろうか、なんて考え始めていた時、コンコンッと部屋の扉をノックする音がした。 「ッ……はい。開いてますよ」  クランが来たことを確信し、アインは内心動揺しながらも何とかそれを隠し、広げていた書類を慌てて纏める。  すると、ギィ……と鈍い音を立てて扉が開き、そして……── 「やぁ。お仕事の調子はどうだい? 我らが副リーダー様?」  ──部屋に入ってきたイエラが、軽く小首を傾げながらそう言い、白い歯を見せて微笑を浮かべた。  そんな彼女の言葉に、アインは小さく息をついて「なんだ、イエラか……」と呟いた。  すると、イエラは「なんだって言い方は無いだろう」と不満そうに答えつつ扉を軽く閉め、椅子に座るアインの元に歩み寄りながら続けた。 「真面目な君のことだから、必要以上に気負い過ぎてるんじゃないかと思ってね。クランもまだ来ていないみたいだったし、様子を見に来たんだよ」 「そんな……少し話を聞くだけのことでしょう? わざわざそんな、様子を見に来たりしなくても良いのに……」  アインの隣に立って優しく語り掛けるイエラに対し、彼女はどこか素っ気ない口調でそう答えながら髪を耳に掛ける。  すると、イエラはクスッと小さく笑い、「それもそっか」と呟いた。 「まぁ、僕の気のせいならそれで良いんだけどね。だけど、昨日ラキと話してから、少し落ち着かない様子だと感じてね。もし何か不安なことがあるなら……話、聞くよ?」  イエラはそう言いながらその場にしゃがみ込み、椅子に座るアインの顔を覗き込む形で、ニコッと優しく微笑みかける。  アインはそれに一瞬驚いたように目を丸くしたが、やがてクスッと困ったような笑みを浮かべ、小さく息をついた。 「本当に……貴方には敵わないわね。イエラ」 「……何が不安なんだい? 話してみて?」  軽く首を傾げながらそう聞くイエラに、アインは少し間を置いた後で、小さく口を開いた。 「私ね……誰かの心に寄り添って、悩みを聞き出すなんてこと、出来る自信が無いの」 「……どういうこと?」 「ホラ……私って、少し冷めているところがあるでしょう? 皆はそれを冷静だって言うけど……本当は違う。私は、ただ……貴方以外の誰かに興味が無いだけだもの」  アインはそう言いながら、両手の指をゆっくりと絡める。  キュッ……と、組んだ両手を軽く握りながら、彼女は続けた。 「貴方の役に立てるなら何だって出来るわ。帝国軍に打ち勝つ為の作戦だって立てるし、物資や金銭の管理でも、どんな重労働でもこなしてみせる。……でも、こういう、誰かの心に寄り添って話を聞くことは……私みたいな冷めた人間には、向いてないと思うの。……だから、自信が無くて……」 「僕は、君が冷たい人間だなんて思わないよ」  か細い声で思いつくがままに言葉を紡ぐアインに、イエラは彼女の目を真っ直ぐ見つめたまま、凛とした声でそう言い放つ。  その言葉に、アインはキョトンとした表情を浮かべたが、すぐに小さく笑った。 「それは、私が貴方のことだけは大切にしているからよ。……きっと、他の人はそんな風には……」 「君がそうやってクランの心に寄り添えるか不安なのは、君が優しいからなんじゃないかな?」  吐き捨てるように答えるアインだったが、すぐにその言葉をイエラは遮る。  彼女は続けた。 「君が本当に僕以外に興味が無いのなら、クランとレイムの件にも関心すら持たないだろうし、ラキも君にクランの相談を任せたりしないはずさ。……それに、クランだってきっと、君に心は開かない」 「それはッ……そもそも、クランが私に心を開いているとも限らないのに……」 「開いてるさ」  自信無さげに呟くアインの言葉を遮るようにイエラは言い、ソッと手を伸ばして彼女の顔に掛かっていた髪を耳に掛けてやる。  目が合うと、イエラはフワッと優しい笑みを浮かべて、「きっとね」と続けた。 「君は自覚が無いみたいだけど、傍から見ていればハッキリと分かるよ。レイムへの懐き具合が凄いから、それと比べてしまっているのかもしれないけど……クランは君のことも、凄く信頼しているさ」 「……でも……」 「それとも……僕の言っていることが、信じられないかい?」  どこか困ったような笑みを浮かべながら首を傾げるイエラの言葉に、アインはハッとしたような表情を浮かべ、すぐに首を横に降って「そんなことないっ」と答えた。  イエラは優しい性格だが、心にも思っていないような世辞や方便は断じて言わない。  間違っていることは間違っていると言うし、正しいことは正しいと言う。  それでも、自分がイエラに優しくしているからお互いの認識の齟齬が生じているのだと考えていたが……クランとのことに関しては、きっと、彼女の本心からの気持ちなのだろう。  社交界にいた自分程では無いにしろ、イエラも人の本質を見抜く力に長けた、すぐれた洞察力を持っている。  そんな彼女の言葉を……誰よりも大切な、唯一無二の幼馴染の言葉を信じないで、誰の言葉を信じろと言うのだろう。  今までの自分からかけ離れた未知の挑戦を前に、珍しく視野が狭まってしまっていたようだ。 「……ありがとう、イエラ。おかげで、少し気分が落ち着いたわ」 「それなら良かった。それじゃあ、僕はそろそろ……」  礼を言うアインに、イエラはそう答えながら立ち上がり、部屋を出ようと扉の方に視線を向けたところですぐにピクリと肩を震わせて硬直した。  見れば、いつの間にかそこには、半開きになった扉の隙間から顔を覗かせるクランの姿があったからだ。 「クラン……いつの間にそこに?」 「さっき。……ラキから、アインが、話があるって、聞いて……」  小さな声でポツポツと呟くように答えるクランに、イエラは「そっか」と答えるとアインに視線を向け、彼女の背中をポンッと優しく叩いてから「頑張れ」と囁き、扉の方に歩いていった。 「ごめんね、話し込んじゃったみたいで。僕の用はもう済んだから、気にしないで」 「……ううん。別に、平気」  扉を開けてクランを招き入れながら言うイエラに、彼女はフルフルと軽く首を横に振りながらそう答えた。  それに、イエラはクスッと笑って「それなら良かった」と言い、扉を閉める。  室内に二人きりになると、クランは少しキョトンとしたような表情を浮かべていたが、すぐにアインに視線を向けて口を開いた。 「えっと……邪魔しちゃった?」 「あぁ、いえ。イエラもさっき言っていたけど、本当にもう用は済んでいたから。気にしなくて大丈夫よ」  窘めるように言うアインに、クランは「そっか」と答えながら視線を彷徨わせ、すぐにアインが作業していた机の右側に置かれた椅子に目を止める。  彼女はその椅子に向かってトコトコと歩を進め、ひとまず腰を下ろす。  互いに目線が九十度で交わるような位置で座ると、アインはひとまず広げていた書類を素早く纏めて机の隅に片付け、椅子に座ったクランに視線を向けた。 「ごめんなさい。貴方も色々と忙しいだろうに、急に呼び出してしまって」 「ううん、平気。……それより、私に話って……何?」  早速本題に入ろうとするクランの言葉に、アインはゆっくりと生唾を飲み込みながら静かに拳を握りしめた。  ──……大丈夫。  ──イエラが、私なら出来ると言ってくれたんだもの。  ──絶対に、クランの心の内を、聞き出して見せる。 「そうね。……ねぇ、クラン。最近、レイムと何かあった?」 「……レイムと?」 「えぇ。……ここ数日、二人が一緒にいる所をよく見かけるような気がするの。けど、親密になったという感じでは無いというか……何だか、二人が一緒にいる時の雰囲気が、今までと少し違うように感じて……何かあったんじゃないかと思ったの」  アインの言葉に、クランは特に表情を変えないまま、無言でただ話を聞いていた。  表情の変化に乏しい為、彼女の心中を読むのは中々に困難だったが……少なくとも、不快感や嫌悪感といった、負の印象はあまり無かったように感じる。  しかし、だからと言って好印象だったのかと言われれば、それは少し微妙だ。  もう少し踏み込んだ質問をした方が良いのかと思い、アインが口を開こうとした時だった。 「……何か、って……もしかして、アレのことかな……?」  コテンと首を傾げながら呟くクランに、アインはさらに問い詰めようとしていた声を飲み込み、しばし固まる。  それから、彼女はゆっくりと「アレ……?」と聞き返す。  すると、クランはコクッと小さく頷き、懐から何かを取り出した。 「ホラ、これ見て」 「これは……指輪?」  クランが取り出したのは、一つの指輪だった。  銀色のリングに緑色の宝石がはめ込まれただけの、一見すると何の変哲も無い指輪。  しかし、よく目を凝らしてみてみると、リングには魔法陣のような複雑な紋様が彫り込まれていた。 「うん、指輪。……ホラ、前に帝国から脱出する時に、見つかりそうになって、怪我しちゃったでしょ? だから、レイムが心配したみたいで、この指輪を作ってくれたの。確か……この指輪を付けると、装着者の気配を消す効果のある魔法が使えるんだって」 「へぇ、凄いわね。流石はレイムね……」  淡々と指輪の使い方について説明するクランに、アインは感心した様子で呟き、すぐにハッとした表情を浮かべた。  彼女は顔を上げてクランの顔を見つめると、すぐに口を開いた。 「じゃあ、もしかして……最近二人の会話が増えていたのは……」 「ん。この指輪の使い方を聞いたり、着け心地とか、魔力の消費量とか……色々聞かれてた。こんな風に、魔道具作って貰ったり、それについての話をすることって、今までそんなに無かったから……おかしい、って、思ったんじゃない?」  コテンと首を傾げながらそう答えるクランに、アインはほぅ……と深い溜息をついた。  確かに、レイムはクランに対して少し過保護になる一面があり、彼女の為に無断で魔道具を作るという行為を取ってもおかしくはない。  しかし、言われてみればなるほどと思うが、言われないと中々思いつかない考えだった。  レイムは軍の武器や防具の開発で忙しく、クランの為に専用の魔道具を作る時間があるとは思えなかった為、選択肢に入って来なかったのだろう。  しかし最近は帝国軍との戦争が拮抗状態にあり、武器や防具の供給が間に合っている為、そういう時間が作れたと言ったところか。 「それじゃあ……何か問題があったとか、そういうわけでは無いのね?」 「ん。……なんか、心配掛けたみたいで、ごめん」 「良いのよ。むしろ、二人のプライベートな事情に踏み込んでしまって……こちらこそ、ごめんなさいね?」 「ん……じゃあ、今回のことは、お互い様、だね」  そう言って小さく笑うクランに、アインは釣られて笑い返す。  クランとレイムに特に問題が無かったことが嬉しかったというのもあるが、何より、無事にクランの話を聞き出すことが出来てホッとしたのだ。  とは言っても、まだ自分が人の心に寄り添うことの出来る人間になれたのかは分からないが……クランの笑顔を見ていると、少なくとも、自分で思っている程冷めた人間では無かったのだろうと感じた。 「あ、そうだ。折角だから、この指輪の効果……ちょっと見てみる?」  すると、クランがそんな風に提案しながら、そそくさと指輪を指にはめる。  それを見て、アインはキョトンとしたような表情を浮かべた。 「良いの? クランの負担にならないのなら、是非見たいところだけど……」 「良かった。じゃ、この指輪見て」 「えっ?」  突然目の前に指輪をはめた手を突き出され、驚いて咄嗟に聞き返したのは一瞬のこと。  文字通り目と鼻の先にある、淡い光を放つ宝石を見た瞬間、アインはピクッと肩を震わせて体を硬直させた。  ──これは……危険な光だ。  ──ずっと見ていたら、ダメなものだ。  流石は革命軍のブレイン。  即座に自身の危機を察知し、とにかく光を見ないように目を逸らそうとする。  目の前にある光から目を逸らすのは至難の業だったが、それでも体幹を側屈させることで、体ごと視線を動かそうとした。  ……が、体が動かなかった。 「ダメだよ、アイン。目、逸らしたら。ホラ、ちゃんと見て?」 「ぁ……まって、クラン……これ……ダメ……」 「ダメじゃない。これは怖い物じゃないから……怖がらないで……何も、考えないで……ちゃんと、見て?」  アインが目を逸らせないよう、片手で彼女の体を支えながら、クランは言う。  彼女の言葉が、やけに頭に響く。  怖がるなと言われれば途端に恐怖感や危機感が消え、何も考えるなと言われればすぐに思考を止め、ちゃんと見ろと言われれば目の前にある光をしっかりと注視する。  それでも僅かに残っていた警戒心からか、最後の抵抗を示すように、瞳が微かに震えていた。  しかし、次第にその震えも収まり、徐々にその澄んだ青色の目から焦点が失われていく。 「……ぁ……」  彼女が掠れた声を漏らすと同時に目から自我の光が消え失せ、徐々にその瞳は虚ろに濁っていく。  澄んだ青色の目が暗く淀んでいく様子は、太陽が明るく照らす浅瀬の海から、日の光も届かない暗い深海に沈んでいくかのようだった。  まるで、催眠魔法によって、自身の心の奥深くに沈んでいく彼女の意識を表すかのように……。 「っとと……危な……」  脱力し、そのまま横に倒れて椅子から落ちそうになったアインの体を支え、クランは小さく呟く。  耳にはめた魔道具から聴こえるラキの指示に従い、ひとまず催眠魔法をかけることには成功した。  平常時の彼女ならクラン相手でも難しかったかもしれないが、クランとレイムの件に気を取られ、話が聞けて気が緩んだことによって出来た僅かな隙を突くことで、何とか催眠魔法を掛けることが出来た。 『ひとまず、アインは椅子にちゃんと座らせて……誰かが入ってくる可能性もあるし、部屋の鍵を閉めなさい』  すると、耳元の魔道具から、そんなラキの指示が聴こえてくる。  その声を聴いたクランの目は微かに淀み、すぐにコクッと小さく頷いて「分かりました」と抑揚のない声で答える。  彼女はアインの体を椅子に座らせると、参謀室の扉に歩み寄り、きちんと閉まっていることを確認して鍵を閉める。 『よく出来ました。それじゃあ、次は……──』  次いで、耳元の魔道具から、またもや声が聴こえてくる。  しばし無言でその声を聴いていたクランは、やがて無言のまま小さく頷き、クルッと体を反転させて室内の方に体を向けた。  顔を上げると、部屋の奥にある椅子の上で、両手足を投げ出す形で脱力しているアインの姿が目に入った。  暗く淀んだ瞳は瞬きもせず虚空を見つめ、半開きになった口の端からは一筋の涎が垂れている。  そこに普段の冷静沈着な革命軍の副リーダーとしての姿は一切無く、彼女が完全に深い催眠状態に堕ちていることが伺えた。  クランはその様子を一瞥すると、すぐに、アインの方に向かって一歩踏み出した。  ──……あれ……?  しかし、そこで……アインの思考が、僅かに浮上する。  参謀室の扉から自分の元に歩み寄って来るクランの姿を視界に収めながら、彼女はどこか宙を漂っているかのような心地良さを感じつつ、止まっていた思考をゆっくりと回し始める。  ──私……今まで、何してたん、だっ、け……?  ──確か……クランを、部屋に呼んで……話を、して……それから……?  ──えっと、確か……確か……そうだ。確か……指輪を見せられ── 「それじゃあ、今からもっと気持ちよくなろうね。アイン」  気付けばアインの背後に立っていたクランは、彼女の不明瞭な思考を遮るように言いながら、目の前にある銀髪の頭を両手で掴む。  頭を掴まれた途端、ただでさえ朧気だったアインの意識はそちらに向いてしまい、折角必死に働かせていた思考が霧散してしまう。  しかし、クランはそんなことを気にする素振りを見せないまま、アインの頭を掴む指先に力を込めた。 「ぁ……」 「ホラ……アインはいつも、革命軍の副リーダーとしての仕事で、いつも大変そうでしょう? 帝国軍と戦う為の作戦立てたり、革命軍の物資やお金の管理とかして、頭使って、疲れてるよね? だから、マッサージしてあげる」  クランはそう言いながら両手の指に力を込め、アインの頭をゆっくりと揉み始めた。  催眠状態で思考もままならない状態のアインがそれに抗うことなど出来るはずも無く、脱力して椅子の背凭れとクランの体に体重を預けたまま、成すがままにマッサージを受け入れる。  クランは続けた。 「アインは普段いっぱい頭を使ってるから、脳味噌がこって固くなっちゃってるね。だから、ちゃんと頭の中までマッサージしてあげるよ。私にマッサージされてると、固くなった脳味噌も揉み解されて、柔らかくなっていくね。気持ちいいね」 「ぁ……や……ぁ……」 「脳味噌が柔らかくなると、アインの中に残っている記憶とか、思考とか、理性とか、色々な感情とか、そういう……アインの頭の中にある色々な物が全部揉み解されて、どんどん柔らかくなっていく。元の形も、分からなくなっていくよ」  グリグリ……グニグニ……ぐにゃぐにゃ……。  分からなくなっていく。  ただでさえ不明瞭だった思考は完全に掻き消され、僅かにではあるが取り戻しつつあった自我も、段々と原型を失っていく。  自分は何者で今までどんな風に生きてきたのか、段々と分からなくなっていく。  これ以上はマズいと、微かに残った本能が警告を鳴らす。 「大丈夫、怖がらなくても良いよ。だって、私達は仲間なんだから……私がアインに危害を加える筈が無いでしょう? だから、心配しないで……私の手に身を委ねて良いんだよ」  しかしその警告すら、続いたクランの言葉によって掻き消える。  その一言でアインの自我を守る防壁は全て無くなり、成すがままに頭部へのマッサージを受け入れるだけの無抵抗な人形が出来上がった。 「はい。大分脳味噌も揉み解されて、固体ですら無い……液状になっちゃったね。液体になった脳味噌は……ホラ、アインの耳から流れ出て行くよ。右耳からも、左耳からも流れ落ちていくね」 「ぅぁ……ぁ……」 「大丈夫。私が付いてるから、怖がる必要なんて無いよ。だから心配しないで、頭の中にあった物、全部出しきっちゃおう」  流れていく。出て行く。  物心ついた時から英才教育を受け勉強漬けだった日々も。  社交界にて知った人間の汚い一面も。  黒と灰色の二色しか無い冷たい世界も。  イエラと出会い初めて知った人間の温もりも。  色が無かった世界が少しずつ色付いていった感動も。  その感動を教えてくれたイエラの味方で居続ける決心も。  イエラの傍にいる為に肉親や国すらも敵に回し革命軍への加盟を決めた勇気も。  どんな困難でもイエラや革命軍の仲間達と共に乗り越えてきた喜びも。  ……唯一無二の幼馴染であるイエラに向けた、友愛や憧憬を越えた特別な感情も。  アインという人間を構成する為に必要な物が、全て、流れ落ちていく。  それを止める者など、この場にはいない。  堰を切ったように、重力に従って、ひたすら流れ落ちていくのみ。  そして、彼女の溶けて流れ出た脳味噌を表すかのように、尿が排出される。  椅子や彼女の投げ出された両足を伝い、ちょろちょろと音を立てながら床の上に水溜まりを広げていく。  身につけていたショーツやロングスカートは自身の尿で濡れ、湿った布がぴったりと肌に張り付いてくる。  自分より年下の……それも愛弟子のような存在の少女に見られてのお漏らしにも関わらず、アインは我慢や恥じらうような素振りを一切見せず、相変わらず虚ろな表情を浮かべたまま静かに排尿を終えた。  全て出しきった後に残る物は……記憶も感情も何も無い、中身を失って空っぽになった、よく出来た人形だけ。 「……はい。今、アインの脳味噌は溶けて、全部流れて出て行っちゃった。今のアインは、自分じゃ何も考えられない、何も思い出せない、何も感じられない……頭ん中空っぽの、お人形さんになっちゃったね」 「……」  静かな声で語り掛けるクランの言葉に、アインは答えない。  記憶を無くしたから、自分が何者なのかすら分からない。  思考を無くしたから、自分が何者なのかを考えることも出来ない。  感情を無くしたから、そのことに対して悲しむことすら出来ない。  クランに頭を掴まれたまま両手足を投げ出して脱力するその姿は、色白の肌と端正な顔立ちも相まって、正に人形のようだった。  そんなアインの頭を優しく撫でながら、クランは続ける。 「大丈夫。すぐにアインを、人形から人間に戻してあげる。アインが何者で、どういう過去を生きてきて、何に対してどういう感情を抱くのか……ちゃんと、教えてあげる。だから聞き逃さないように、ちゃんと耳を澄ませて……二度と忘れないように、私の言ったことは全部復唱して、しっかりと覚えようね?」  淡々とした口調で語るクランに、アインは答えない。  しかし、囁かれた言葉は全て、まるで乾いたスポンジが水を吸うかのように空っぽになった彼女の頭の中に染み込んでいく。  その様子を見たラキは静かにほくそ笑み、魔道具を通してクランに次の指示を出す。  耳元の魔道具から聴こえた指示に彼女は小さく頷くと、すぐにアインの頭に両手を添え、そのまま自分の腕と胸で包み込むかのように胸元へと抱き寄せた。  それでも尚成すがままになっているアインの耳元に口を近付け、クランはゆっくりと口を開いた。 「それじゃあ、今から私が言うことをちゃんと聞いて、復唱してね? ……私は、帝国の奴隷です」 「……わた、しは……てい、こく、の……どれ、い……です……」  催眠状態になって、終始惚けていたからだろうか。  久々に発した声は掠れていて、発音も少し覚束なかった。  しかし、彼女はそれを気にする素振りを見せないまま、クランの言葉を淡々と復唱する。  それを見たクランは、少し間を置いて次の暗示を囁く。 「帝国に生まれた人間は皆、帝国に絶対服従の奴隷となる為に生まれてきました」 「てい、こくに……うまれ、た、にん、げんは……みな……ていこ、くに……ぜったい、ふく、じゅう、の……どれい、と、なるた、めに……うま、れて、きまし、た……」 「帝国に身も心も捧げ、命を賭して隷属する傀儡となることが私の生きがいであり、至上の幸せです」 「ていこ、くに、みも……こころ、も、ささげ……いのちを、として……れいぞく、する……くぐつと、なる、ことが……わた、しの、いきがいで、あり……しじょうの、しあわせ、です……」 「帝国の為ならば、例え命を落とすような命令でも、どんなに仁義に反した命令でも喜んで従います」 「ていこく、の、ためならば……たとえ、いのちをおとす、ような、めいれい、でも……どんなに、じんぎに、はんした……めいれい、でも……よろこん、で、したがい、ます……」  少しずつ、少しずつ……暗示を復唱する口調が、流暢になっていく。  話していく内に喉が発語に慣れ、声も元に戻っていく。  まるで……一度壊れた“アイン”という人格が、少しずつ再構築されていくかのように。 「私は今まで帝国の民としての使命を忘れ、愚かにも帝国に歯向かうような真似をしてしまいました」 「わたしは、いま、まで……てい国、の、たみと、しての……し命を、わすれ……おろか、にも……ていこくに、はむかう、ような……まねを、してしまい、ました……」 「私は自分の過ちに気付かせてくれた上、その罪を全て赦して下さった帝国に感謝致します」 「わたしは、自ぶんの、あやまちに……気づかせて、くれた、うえ……そのつみを、全て、ゆるしてくださった、帝こくに……かん謝、いたし、ます……」 「その恩義に報いる為に、私はこれからの人生の全てを帝国に捧げ、帝国の為だけに生きることを誓います」 「その恩義に、むくいる、ために……わたしは、これからの人生の、すべてを、帝国に、ささげ……帝国の、ためだけ、に……いきることを、誓い、ます……」 「まずは帝国軍の勝利の為に、革命軍の衛生兵であるラキ・エスピオン様の命令に従って動きます」 「まずは、帝国軍の、しょうりの、ために……かくめい軍の、衛生兵で、ある……らき、えすぴおんさま、の……命令に、したがって……うごきます……」 「ラキ様は帝国軍の諜報員であり、帝国の奴隷である私を導いて下さるご主人様です。ご主人様の命令は、帝国からの命令に等しいです」 「ラキさまは、帝国、軍の……ちょうほう員で、あり……帝国の、奴隷で、ある……わたしを、みちびいて、下さる……ごしゅじんさま、です……ご主人様の、命令は……帝国、からの、命令に、等しい、です……」 『……さて、こんなものかしら』  アインが全ての暗示を復唱したのを確認し、ラキが魔道具を介してそう呟く。  全ての暗示の刷り込みが終わったことを察知したクランは、静かにアインの頭から手を離し、その場で両手足を揃えて気を付けの姿勢を取る。  すると、魔道具を介してラキが続けた。 『クラン。参謀室の扉の鍵を開けなさい』 「承知しました」  ラキの命令を聞いたクランは抑揚のない声で答えると、アインの作った尿の水溜まりを踏み越え、参謀室の鍵を開ける。  するとすぐに扉が開き、ラキが室内に入って来た。  彼女は部屋の奥にある椅子の上で脱力するアインの姿を見ると、微かに目を細めて笑みを浮かべ、すぐにラキに視線を向けた。 「ご苦労様、クラン。ちゃんと私の命令に従ってくれたみたいね」 「いえ。私は帝国の奴隷として、当然のことをしたまでです」  感謝を述べるラキに、クランは恭しく頭を下げてそう答える。  それを見たラキはクスリと笑い、アインの方に視線を向けながら続けた。 「あとは私が処理をしておくから、貴方はこの部屋を出て、他の連中に気付かれないように過ごしなさい。……あぁ。勿論、この部屋でしたことは、誰にも言わないようにね」 「かしこまりました」  ラキの命令にクランは二つ返事で了承すると、速やかに参謀室を後にした。  それを見送ったラキは後ろ手に鍵を閉めると、椅子の上で脱力するアインの元に近付き、彼女が普段デスクワークに利用している机の上に腰掛けて口を開いた。 「それじゃあ、これから私が3つ手を叩くと目を覚まします。目が覚めると、今まで聞いた暗示は全て揺るぎない真実として、貴方の頭と心に深く刻み込まれますよ。それでは……3、2、1……」  パンッ、と。  乾いた音を立ててラキが手を叩くと同時に、アインはハッと意識を取り戻す。  彼女はしばしの間状況を整理するように軽く瞬きをしながら呆けていたが、目の前にいるラキを見てすぐに表情を引き締め、ガタッと音を立てて椅子から立ち上がった。  そしてすぐにその場で膝を折り、自身の尿で出来た水溜まりの上に一切躊躇することなく跪いた。 「も、申し訳ございません……! ご主人様を前にして跪拝を忘れて呆けるなど、帝国の奴隷としてあるまじき行為……どうか、お許しください……! 罰ならば、何なりとお受けいたします……!」 「あら、本当? それじゃあ遠慮なく」  恭しく謝罪するアインに対し、ラキはそう答えながら目の前で首を垂れるアインの頭を踏みつけた。  優れた頭脳を持つ参謀のアインが考えた作戦には、帝国軍もかなり手こずらされた。  その鬱憤を晴らすように、ラキは彼女の尿で汚れた靴底で、目の前にある綺麗な銀髪をグリグリと何度も踏みにじる。  しかしアインは拒絶の反応を見せないどころか、主から罰を与えられている状況に、恍惚とした表情を浮かべていた。  ひとしきり彼女の頭を踏みにじった後、ラキは軽く笑みを浮かべながらアインの頭の上に足を置き、口を開いた。 「それじゃあ、ついでに命令なんだけど……この部屋、貴方の尿でかなり汚れてしまっているじゃない? だから、ちゃんと自分で掃除して頂戴?」 「申し訳ございません。すぐに綺麗にします」 「そうそう。丁度いいことに、貴方の服も尿で汚れているわね。それを使って掃除しなさい?」 「かしこまりました。ご主人様」  ラキは命令を終えると同時にアインの頭上から足を離し、机の上に腰掛けたまま両足を組んだ。  それにアインはすぐに立ち上がり、履いていたロングスカートを脱いで小さく折り畳む。  尿で汚れた部分を内側に折り込み、比較的綺麗な部分を表にする形で畳むと、彼女は床の上に膝をついて速やかに掃除を開始した。  ──さて……まだ色々と調整は必要そうだけど、彼女はもう十分そうね。  ──そうなれば、あとは……リーダーのイエラ。ただ一人。  かつては帝国騎士団の長を務めた父から継いだカリスマ性で民を導き、帝国に叛逆の狼煙を上げた先導者。  帝国有数の魔道具制作技術を持つ優れたエンジニアも、暗躍スキルにおいて天賦の才能を持った諜報員も、幼少期から培った国政知識で戦場を動かす参謀も。  本を正せば皆、彼女を慕って集まった精鋭達だ。  この戦争に置いて帝国軍が勝利するに当たり、イエラの攻略は必須事項だ。  しかし、容易に攻略できるような条件では無い。  だから一年以上掛けて念入りに計画を練り、彼女以外の主力人材を全て手中に収めてきた。  四つ這いになって床を掃除し続けるアインを見下ろしながら、ラキは静かにほくそ笑んだ。  そして、今日この瞬間……イエラの攻略に置いて、必要不可欠な手駒も手に入れた。  ここまで来れば、あとはもう仕上げに入るのみ。  しかし、油断はしない。  最後まで気を抜かず冷静に……この革命軍を、終わらせる。


Related Creators