【先行公開】叛逆の刃が折れる時 二人目【前編】
Added 2021-03-07 15:00:00 +0000 UTCレイムを帝国の奴隷として手中に収めてから、かれこれ三日が経過した。 現状、革命軍の連中が私の作戦に気付いている様子は無い。 前以って多少派手に動いても怪しまれない程度には確固たる信頼を築いていたのと、レイムが私の命令に従うべく工房に籠って魔道具の製作に勤しんでいる為、他の革命軍メンバーとほとんど交流していないことが主な要因だろう。 彼女が魔道具製作の為に寝食を忘れて工房に籠るというのは以前から珍しく無く、他の面々がそのことについて不審に思うことは無かった。 強いて言うなら、私が植え付けた帝国への忠誠心故か、工房に籠る時間が今まで以上に増えているようには感じるが。 しかし、それも大抵のメンバーはいつもの作業への熱中の延長だと考え、特に気にする様子は無かった。 「はい。これで傷は治せたと思うけど……どう? 痛みは無い?」 頭の中で作戦の進行状況を確認しつつ、私は笑顔でそう答えながら顔を上げた。 私の言葉に、治療を施されていたクランは相変わらずの無表情のまま右腕を持ち上げ、治療の具合を確かめるように軽く振った。 彼女の動きに合わせて、肩まである黄緑色の髪が僅かに揺れる。 何度か腕を振ったところで痛みが無いことを確認できたようで、彼女は表情を崩さないまま一つ頷き、髪と同色の少し釣り目がちな瞳をこちらに戻した。 「うん、問題無さそう。……ありがとう」 「どういたしまして。……と言っても、衛生兵として当然のことをしたまでの話、だけどね」 礼を言ってくるクランに、私は軽く手を振ってそう答えた。 すると、彼女はフッと僅かに表情を緩め、「それもそっか」と小さく呟いた。 彼女は一週間程前から帝国軍の潜入調査に出向いており、ついさっき帰って来たのだ。 しかし脱出の際に帝国軍の人間に見つかりそうになり、少し無茶な脱出手段を用いた為に腕を少し負傷してしまったようで、こうして治療を施していたのだ。 彼女の暗躍技術は、素人にしては目を見張るものはあるが、所詮は平民生まれの生娘。 諜報員として未熟な面は多々あるが、彼女の秘めている潜在能力は底知れない。 軍隊等で的確な訓練を施せば、かなり優秀な諜報員になるだろう。 彼女が帝国の奴隷となった暁には、優れた手駒となってくれるに違いない。 同時に、クランという少女の持つ諜報員としての才能に気付いたアインもまた、卓越した頭脳を持つ素晴らしい人材であると言えるだろう。 やはり、革命軍には有能な人材が多いな……なんて考えていた時、コンコンッと、救護室の扉をノックする音がした。 「開いているわ」 私がそう声を掛けると、ガチャッと音を立てて扉が開き、「失礼しま~す」と気の抜けた声で挨拶をしながらレイムが入って来る。 彼女は私とクランの姿を見ると、微かに目を丸くして「おっ」と小さく声を漏らした。 「クラン、帰ってきてたんだ。ここで何してんの?」 「ん……戻ってくる時に、見つかりそうになって……急いだら、怪我した」 「ありゃま……大丈夫?」 「ん。ラキに治して貰った」 クランの言葉に、レイムはパッとこちらに視線を向けた。 目が合うと、自分が生涯を捧げて従うべき帝国の人間を目の当たりにしたからか、彼女の両目が法悦に濁る。 彼女の作業を邪魔しないようにと、極力会わないようにしていたのだが……どうやら、洗脳は完璧みたいだ。 「それじゃ、二人の邪魔したくないし……私はもう行くね」 レイムの洗脳の掛かり具合を再確認していた時、クランがそう言って立ち上がった。 彼女の言葉に、レイムは目を丸くしてクランを見た。 「そんな、私のことは別に気にしなくても良いのに」 「怪我は治して貰ったし……これからアインに潜入調査の結果を報告しないとだから」 「あぁ、そっか。じゃ、行ってらっしゃい」 レイムはそう言って明るく笑いながら、クランの頭をポンポンと軽く撫でる。 それに、クランは服の裾を軽く握り締め、「ん」と小さく頷いた。 彼女が部屋を出て行くのを見送ると、レイムはその表情から笑みを消し、感情の無い虚ろな瞳でこちらを見た。 「お取り込み中のところを邪魔してしまい、申し訳ございません。罰ならば何なりと」 抑揚のない声で言いながら彼女は恭しく跪き、無表情のままこちらを見上げる。 彼女の言葉に、私は「別に気にしてないわ」と答えた。 「それより、用件は何?」 「はい。先日ご主人様に頼まれていた魔道具が完成致しましたので、持って参りました」 レイムはそう言うと、懐から指輪のような物を一つ取り出し、掌の上に乗せてこちらに差し出してきた。 私はそれを親指と人差し指で摘まみ、目線の高さまで持ち上げた。 銀色のリングに緑色の宝石がはめこまれた、一見すると何の変哲もない指輪。 しかし、目を凝らしてよく見てみると、リングには魔法陣の紋様によく似た複雑な装飾が彫り込まれている。 「ふぅん……? これは、どうやって使うの?」 「はい。この指輪をはめて魔力を込めると、ご主人様がくれた魔石が反応し、催眠魔法が発動する仕組みです。あとは、催眠を掛ける対象に魔石を見せれば、誰でも催眠魔法を扱うことが出来ます」 淡々と説明するレイムの声を聞きつつ、私は指輪を指にはめ、僅かに魔力を込めて見た。 すると、緑色の魔石がぼんやりと淡い光を放つ。 なるほど……確かに、これなら誰でも簡単に催眠魔法を扱うことが出来るだろう。 施されている魔法陣は、装着者の魔力感知と、魔力を感知すると魔石の魔法を発動するもの……と言ったところか。 一見シンプルな造りに見えるが、この小さな指輪にそれだけの効果を付与しようと思うと、かなり精巧で複雑な技術が必要になってくる。 洗脳の効果か平然としているが、きっとかなりの労力を以てこの魔道具を作成したことだろう。 「フフッ、ちゃんと私の命令を遂行してくれたみたいね。優秀な奴隷を持って、私は嬉しいわ」 「いえ……帝国の奴隷として、当然のことをしたまでです」 私が簡潔に感謝を述べると、レイムは何てことないような口調でそう答えた。 しかし、その顔は主の命令に従えた悦びからか恍惚としており、うっとりと惚けた目でこちらを見つめている。 そんなレイムの様子に、私は小さく笑いつつ片足を持ち上げ、彼女の方にゆっくりと動かす。 爪先を彼女の顎に当てると、足先を軽く持ち上げ──「……ぁ……」──顔を上げさせる。 私の足先で無理矢理顔を上げさせられたレイムは、微かに振り絞ったような声を漏らしながらも、恍惚とした表情を浮かべたままこちらを見上げる。 そんな彼女に微笑を返しつつ、私は指にはめていた魔道具を外し、口を開いた。 「それじゃあ、優秀な奴隷にもう一つお願いしたいことがあるんだけれど……良いかしら?」 「も、勿論です……! 私は帝国の奴隷なのですから、遠慮なさらず、何なりと……!」 手先で指輪を弄りながら尋ねた私に、レイムは嬉々として答える。 そんな彼女に、私はソッと指輪を差し出しつつ、続けた。 「この指輪で……クランも、元は帝国の奴隷であったことを“思い出させて”あげなさい?」 そう。次の標的は、クラン・リエース。 元奴隷であり、革命軍の諜報員兼参謀補佐を担う彼女を、手中に収める。 彼女は奴隷時代のトラウマにより、あまり人に心を開かない、内向的な性格になった。 しかし、全ての人間に対して心を閉ざしている訳では無い。 革命軍の中でもごく一部の人間に対してではあるが、彼女が心を開く人間は存在する。 その中でも特に心を開いている相手が、レイムだ。 レイムとは元奴隷同士であることや、双方ともに革命軍の中でも重要な役割を担っていること等で共通点が多く、レイム自身の社交的な性格も相まってかなり信頼しているみたいだ。 これは、私が革命軍に潜入してから信頼を築いてきた理由にも繋がってくるのだが……催眠魔法の被暗示性には、術者と被術者の信頼関係が強く影響する。 まぁ、当たり前だ。信頼出来ない相手の言うことを信じろと言う方が無理な話なのだから。 誰に対しても開放的な性格のレイムに対しては、革命軍の衛生兵として築いた信頼で十分に暗示を掛けることが出来た。 衛生兵の仕事の都合上、エンジニアの彼女とは他の面々よりも交流が多かったのも要因ではあるかもしれないが……ともかく、レイムに対しての信頼関係については問題無かった。 しかし、閉鎖的な性格のクランに対してはそうもいかない。 確かに、革命軍の衛生兵としてある程度は信頼してくれているかもしれないが……作戦の遂行には、些か足りない。 今の信頼関係では、催眠魔法を掛けること自体は可能だろう。 だが、彼女の存在を帝国の奴隷として作り替えるのは、恐らく不可能だ。 この洗脳は、催眠魔法を用いて相手の心の奥深くまで入り込み、その人の存在そのものを塗り替えるような所業。 被術者が術者に対し、自分の心の奥深くまで入ってきても良いと思える程の強い信頼を置いていることが必須なのだ。 クランは少なくとも、私にはそう言った絶大な信頼はしていない。 あくまで、仲間として最低限のものだろう。 しかし……レイムは違う。 彼女に対しては、仲間を超えた友愛の感情を抱いているのが分かる。 自分の心の一番奥深くまで曝け出し、身も心も全てを委ねても良いと言わんばかりの信頼を置いているのは明白だった。 だから、その信頼を利用する。 帝国の諜報員として潜入しながらも、革命軍の衛生兵として潜入している私が、多少派手に動いても怪しまれない程度の信頼を築けているのだ。 心から帝国への革命を望み、自分の技術を惜しみなく発揮して革命軍を支えてきたエンジニアのレイムを怪しむ人間など誰もいない。 増してや、クランは洗脳後のレイムとほとんど接触していない。 今のところ彼女がレイムの異変に気付いている様子も無いし、潜入調査で多少なりとも疲労して周りへの警戒心が鈍っている今ならば、彼女がレイムを疑う可能性は皆無と言っても過言では無い。 「クランを……ですか……?」 突然の私の提案に、レイムが微かに困惑したような声を漏らす。 クランがレイムを特に信頼していたのと同じように、レイムにとっても、クランは特に信頼できる存在だった。 理由は同様に、元奴隷という境遇が似ていたり、革命軍の中で重要な役割を持っていたことからシンパシーを感じたのだろう。 誰に対しても友好的な態度を取る彼女だが、クランには特にそれが顕著で、革命軍の中でもかなり気に掛けている様子だった。 そんな彼女の名前を出したから、まだ彼女の中に微かに残っていた自我が抵抗しているのだろうか。 もしくは、特別気に掛けていたクランが自分と同じように帝国の奴隷だった、という事実に驚いているのかもしれない。 まぁ、どちらにせよ……任務を遂行する上で、忠誠心以外の余計な感情は邪魔だな。 「えぇ。……ホラ、クランも元奴隷だったでしょう?」 私はそう答えながら目に魔力を込め、催眠魔法を発動する。 すると、レイムは「ぁ……」と掠れた声を漏らしながら、私の目に見入る。 一度深い催眠状態に落とした為か催眠に掛かりやすくなっている様子で、すぐに彼女の目から力が抜け、トランス状態になる。 そんな彼女の様子に、私はクスリと小さく笑み、彼女の顎を爪先で軽く撫でながら続けた。 「あの子も帝国の奴隷となる為に生まれてきて、折角帝国の奴隷として働いていたのに、革命軍に邪魔されてしまったの。それで貴方みたいに、帝国の諜報員として潜入したのだけれど……長期の潜入のせいで、任務を忘れてしまったみたいね」 「ぁ……ぁ……」 「ホラ、催眠療法ってあるでしょう? 催眠術を使って自分の深層心理を探り、自覚していない記憶や感情を思い出して、本来の自分のあり方を思い出すの。……多分、クランは普通に話しただけじゃ素直に信じてくれないと思うのよ。だからこの魔道具で催眠魔法を使って、帝国の奴隷としての本来の姿を思い出して貰うのよ」 「ぁ……ぁぁ……」 「本当は私がやっても良いんだけど……ホラ、貴方もクランと同じように、自分の任務を忘れていたじゃない? それに、偶然にも貴方とクランは仲が良いみたいだし……同じ境遇を持つ者同士、帝国の奴隷同士。こういう時こそ助け合うべきだと思うのよ」 「ぁぁ……ぁ……」 淡々と語って見せる私に、レイムは虚ろな目で私の目を見つめながら、微かに声を漏らす。 さて、ひとまずこんな感じで大丈夫だろうか。 私は催眠魔法を解除すると、爪先でクイッと彼女の顔を上げさせ、続けた。 「だから、命令。同じ帝国の奴隷である貴方が、この指輪を使って、クランの本来の任務を思い出させてあげなさい?」 「ぁ……はい。承知致しました」 私の言葉に、催眠魔法が解けたばかりで呆けていたレイムはすぐに我に返り、抑揚のない声で答えながら指輪を受け取った。 そんな彼女の顎を爪先で少し強めに撫でながら、私は続ける。 「貴方は優秀な奴隷だから……期待しているわよ、レイム」 「は、はいッ! ありがとうございますッ! 必ずその期待に応えられるよう、尽力致しますッ!」 私の言葉と足先での愛撫に、彼女は呆けていたその表情を恍惚に染め、嬉々とした声でそう答えた。 --- 「はい。これが、今回の潜入調査での結果」 革命軍本拠地の一室。 作戦を立てる為に、主に参謀のアインと参謀補佐のクランが使う特殊な会議室のような部屋にて、クランが冷淡な口調で言いながら今回の調査結果を纏めた報告書をアインに差し出した。 アインはそれを「ありがとう」と答えつつ受け取り、薄い紙の束であるその報告書を軽くペラペラと捲って全体に目を通し、顎に手を当てた。 「今回の調査でも、帝国の内情に大きな変化は無かったみたいね。……今の拮抗状態を崩せるような手掛かりも無し、か……」 「ん。調査してて、向こうもかなり慎重になってる印象があった。……でも、向こうが慎重になっている間に攻め落とせるような隙も無さそうだった」 「そうみたいね。……そうなると、こちらもしばらくは様子見するしか無いかしら」 疲れたような表情で言うアインに、クランは小さく頷きつつ目を伏せた。 現在、帝国軍との戦争は完全に拮抗し、一年前から長期化の兆しを見せている。 戦争が長期化した時、不利になるのは革命軍だ。 帝国は他国と連携し、輸入によって食料や武器等の物資を補充することが出来る。 それに対し、大半は平民の寄せ集めで出来ている革命軍にはそれが無い。 絶対王政によって苦しんでいた平民の村や町から支援を受けることは出来ているが、帝国の経済力と比較すると微々たるものだ。 現状は均衡を保つことが出来ているが、戦争が長期化すればその差はより歴然となり、革命軍が圧倒的に不利な状況となる。 革命軍が勝利する為には、資源の問題を改善する術を見つけるか、今の均衡を崩して戦争を短期で終わらせることしか出来ない。 そして今、アインとイエラは後者の方針で作戦を進めているようだ。 というのも、ここ数ヶ月の中で、クランが帝国への潜入調査に駆り出される頻度が高くなってきていた。 帝国の情報をより多く集め、少しでも付け入ることの出来る隙があれば、そこを突いて一気に均衡を崩すつもりなのだろう。 長期の猶予が無い現状、アインの焦りは見て取ることが出来た。 軍事力で劣る革命軍が帝国軍に打ち勝つ術と、それが思いつくまでの猶予を少しでも長引かせる為に物資を的確に管理し、これらの両方を寝る間も惜しんで必死に考えている。 参謀補佐として彼女の苦労を近くで見ているクランの中には、とある疑問が生じていた。 「アインはさ、革命軍に入ったこと……後悔してたり、しないの?」 単純な疑問。 城で大臣として働く両親を持つアインは、平民達のように絶対王政の煽りを受けて貧困に苦しんだわけでも無ければ、クランやレイムのように元奴隷として働かされた訳でも無い。 増してや、イエラのように帝国に家族を殺された訳でもない。 イエラの父、ソルド・モンベルクを尊敬していた為に敵討ちとして革命軍に加入した王族寄りの人間は、元騎士団員のメンバーを中心に少なからず存在する。 しかし、アインはそう言った故人への尊敬の念等では無く、ただイエラの幼馴染だからという理由だけでこの場にいる。 だと言うのに、革命軍のブレインとして、革命軍の中でも特に責任重大な役目を担っている。 革命軍に入らなければ今みたいな苦労はせず、平穏な生活を送ることが出来たのではないか。 そんな疑問が、クランの中にはあったのだ。 「……後悔?」 「うん。アインは平民でも無いし、帝国に対して恨みを持つ理由も無いのに、革命軍に入って……今、凄く大変そうだし……後悔とか、してないのかな、って、思って……」 そんなクランの言葉に、アインはしばしキョトンとしたような表情を浮かべていたが、やがてフワッと柔らかい微笑を浮かべた。 彼女はクランの頭に優しく手を置くと、軽く撫でつけながら口を開いた。 「後悔なんて、していないわ」 その言葉に、クランは微かに目を見開いた。 すると、アインは目を細めて続けた。 「私は別に、帝国に復讐したいだとか、今の政治を変えたいとか……そういう理由で革命軍に入った訳じゃないもの」 「じゃあ、どうして、革命軍に……?」 「……大切な友達の力になりたい……だけじゃ、不十分かしら?」 慈愛に満ちた優しい眼差しで語るアインに、クランは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。 しかし、それと同時に、なるほどと思った。 ただ、家族同然の幼馴染であるイエラの力になりたいから。 シンプルな理由だが……自分も、今も奴隷として働かされている家族を救いたいから、革命軍の諜報員として頑張っている。 大切な人を救いたい、助けたい、力になりたい……その思いはきっと、何物にも代えがたい原動力となるのだろう。 「……ううん。十分」 「そう。それなら良かった」 小さく首を横に振って応えるクランに、アインはニコッと笑って彼女の頭から手を離した。 「他に何か質問は無い? 答えられることなら、極力答えるわ」 「ん……平気」 「そう? それじゃあ、帝国への潜入調査で疲れているでしょうし、ゆっくり休んで?」 「分かった」 アインの労いに端的に返すと、クランは踵を返し、部屋を出た。 彼女は後ろ手に扉を閉めると、先程まで引き締めていた気を一気に緩ませ、大きく息を吐いた。 「……疲れた」 溜息混じりにそう呟くと、軽く首を横に振った。 敵陣である帝国軍の内部に約一週間弱もの間潜入し、少しでも気を抜けば即命を落とすような状況で、息つく間も無くずっと潜入調査を行っていた。 しかしそれだけ必死に調査したにも関わらず、現状を好転させられるような情報は全くと言って良い程に集まらなかった。 その上、帝国脱出の際には敵兵に見つかりそうになり、何とか逃げることは出来たが腕を負傷して命からがら逃走してきた。 心身ともに疲弊していたが、様々な雑務で多忙を極めているであろうラキやアインに心配を掛ける訳にもいかず、疲れを見せないように気を張っていたのだ。 ──でも……流石に限界……。 ──近い内にまた潜入調査に向かうことになるだろうし、今は休んでおこう……。 頭の中でそんな風に考えつつ、クランは拠点内の自室に戻るべく、フラフラと覚束ない足取りで廊下を進んでいた。 疲労と眠気で視界が霞む中、廊下の角を曲がったところで、彼女は微かに足を止めた。 なぜなら、自分の部屋の前に、壁に凭れる形で立っている人影が見えたからだ。 ──……誰だ……? 疲労によってあまり視界が利かなくなっていたクランは、遠目に見える人影に、訝しむように眉を顰めた。 今日は潜入調査の結果を報告する為にアインと会う以外に、拠点に帰還してから誰かと会う予定は無かった筈だ。 ──もしかして、ラキかな……? 腕の怪我のことで、何か話があるとか……? ふと沸き上がった予想に、彼女はすぐさま疲労を隠すべく表情を引き締め、ピシッと背筋を伸ばした。 衛生兵の総括を行うラキは、革命軍メンバーの怪我の治療や健康管理等、衛生面での雑務を行っている。 彼女は彼女で忙しく、特に問題の無い疲労を見せて心配させる訳にはいかない。 適当にあしらって早く部屋で寝ようと覚悟を決めたクランは、平静を装いつつ自室に向かって歩を進める。 「おっ、クラン。お疲れ」 すると、部屋の前にいた人物は、そんな風に声を掛けつつ軽く手を挙げた。 その声を聴いたクランは一瞬キョトンと目を丸くしたが、すぐにパッとその表情を僅かに明るくした。 「レイムっ」 若干明るくなった声でその人物の名前を呼び、彼女は疲れた体に鞭を打って駆け出した。 近くまで行くと、疲労で霞んでいた視界の中でレイムの姿が明瞭になっていく。 駆け寄ってきたクランを見て、レイムは彼女の方に体を向けて笑みを浮かべた。 「クラン、アインへの報告とやらは終わっ……」 終わったの? と聞こうとしたレイムは、すぐに言葉を詰まらせた。 駆け寄って来たクランが、レイムに抱き着いてきたのだ。 元々レイムより年齢が低いことに加え、貧困や奴隷としての生活による栄養失調もあり、クランの体格はレイムより一回り程小柄だった。 そんなクランがレイムに抱き着くと、ほとんど彼女の胸に顔を埋めるような形になる。 突然の抱擁に、レイムは驚いたような反応を示しながらも、何とか両手でクランの体を受け止める。 「ちょっ、クラン? どうしたの?」 「……疲れた……」 驚いた様子で聞き返すレイムに、クランはくぐもった声でそう答える。 彼女はレイムの腰に腕を回すと強く抱き締め、甘えるようにスリスリと顔を擦り付けながら目を細めた。 珍しく素直に甘えてくるクランの様子に、レイムはしばらく驚いたようにキョトンと目を丸くしていたが、やがてフッと表情を緩める。 彼女はクランの華奢な体を抱き締め返すと、自分の胸元にある黄緑色の頭をポンポンと優しく撫でた。 「ん。お疲れ」 優しい笑みを浮かべながらそう囁きつつ、レイムはクランを抱き締めたまま、すぐ目の前にあった彼女の自室に入る。 諜報員として頻繁に帝国軍内部に潜入し、命懸けで情報収集を行うクランには、休養の為に専用の一人部屋が用意されている。 敵地で常に気を張り神経質になっている彼女の休養の邪魔をしない為に、他のメンバーが休養をとる部屋があるエリアから少し離れた場所にあり、用が無い限りその部屋に近付く人間は滅多に居ない。 その為、クランと二人で部屋に入って扉の鍵さえ閉めてしまえば、誰にも邪魔されない二人の空間を作ることが出来た。 「……」 後ろ手に部屋の鍵を閉め、自分の腕の中で完全に身を委ねているクランの姿を見つめながら、レイムは静かにほくそ笑む。 その笑みは、これから主の命令を遂行出来る悦びからか、うっとりとだらしなく蕩けたものだった。 クランの体調が万全の状態であれば、変わり果てたレイムの内面に気付けたかもしれない。 常に周りをよく観察し、冷静に状況を客観視できる通常時の彼女ならば、無理矢理植え付けられた帝国への忠誠心によって歪んだレイムの変化に勘付くことが出来たのかもしれない。 しかし、彼女は気付けなかった。 数日間に渡る潜入調査によって疲弊していた上に、元々心を許していた相手だからこそ、油断していた。 元奴隷という辛い境遇を分かち合い、革命軍の主力として共に戦って来た戦友が帝国に寝返ったかもしれないなど、露にも思わなかった。 その結果、彼女は戦友が自分に向けている毒牙に気付くこと無く、完全に身も心も委ねていた。 無論、ラキはそれも計算の上で、レイムにクランを堕とすよう命じたのだ。 クランが帝国に長期の潜入調査を行っている間にレイムを堕とし、クランが不在でレイムの変化に気付かない間に魔道具を完成させ、クランの帰還と洗脳の時期を合致させた。 主の計画通りに事が進んでいることなど露知らず、レイムは腕の中にいるクランの体を支えながら、部屋の奥にあるベッドの元に歩み寄る。 彼女はゆっくりとベッドに腰を下ろすと、膝の上にクランを座らせて細い腰に両手を回し、華奢な背中を優しく撫でた。 「んぅ……レイム……指輪、してる……?」 「ん? あぁ、うん。今日出来た魔道具の試作品を試してるんだ。……邪魔だった?」 眠たげな声で途切れ途切れに話すクランに、レイムは優しい口調で聞き返す。 それに、クランはフルフルと軽く首を横に振った。 「ん~ん、邪魔じゃない。ただ、ちょっと……気になっただけ。……レイムが、指輪とか、してるの……珍しいな、って……」 「まぁ、そうだね。……疲れてるなら、無理に喋らなくても良いよ?」 「……ん……」 レイムの言葉に、クラン小さく頷きながらそう答えた。 彼女はそのまま前のめりに倒れ、ポフッと軽い音を立ててレイムの体にしなだれかかった。 完全に脱力した様子で身を委ねるクランの様子に、レイムは指にはめた指輪に軽く魔力を込めながら口を開いた。 「そうだ。クランは疲れてるみたいだし、ぐっすり眠れるおまじないを掛けてあげるよ」 レイムは穏やかな口調でそう話しかけながら密着していたクランの体を僅かに離させ、少し距離をとる。 突然距離を取られたことで不機嫌になったのか、クランは少しムッとした表情を浮かべながらも、すぐに首を傾げた。 「おまじ、ない……?」 「うん。ホラ……この指輪を見て?」 レイムはそう言うと、魔力を込めた指輪の宝石をクランの目の前に差し出した。