女王の手駒に堕ちる時・続
Added 2020-04-23 15:11:06 +0000 UTCパタン、と音を立てて、私、翡翠は読んでいた本を閉じた。 雅が屋敷の調査に向かってから、かれこれ二日と十三時間程が経過していた。 彼女は優秀な忍だ。潜入調査にここまでの時間が掛かることは珍しい。 あの子の力量であれば、屋敷に潜入してからせいぜい九時間程あれば、ある程度の情報を持って帰って来るはずだ。 もしも潜入して期待通りの情報が得られなかったとしても、潜入してから二十四時間が経過したら一度こちらに帰還し、長期調査に切り替える旨を報告するようにしている。 屋敷間の往復時間を含めて大幅に見積もっても、三十時間以上音沙汰も無く調査に出向いているのはかなり珍しい。 単純に考えれば、まぁ……潜入が見つかって、捕獲されたと考えるのが普通か。 雅程の優秀な忍が捕まるとは……やはり、あの屋敷の主はかなり切れ者であるようだ。 美凰がここ一ヶ月程の期間で立て続けに起こっている少女行方不明事件の犯人であるのは、ほぼ間違いないと見ても良いだろう。 彼女には元々、十代程の年齢の少女を好む趣向があった。 加えて、彼女が怪しい妖術に手を出しているという噂もあり、事件の前からいずれは何かしでかす空気を纏った人間だとは思っていた。 そして、彼女の屋敷周辺で頻発している行方不明になった少女の目撃情報に……潜入調査に行ったきり帰ってこない雅の存在。 彼女はほぼ黒と言っても過言では無い。 しかし、確証がない。 彼女が少女行方不明事件の首謀者であると、誰が見ても明らかになるような確固たる証拠が存在しないのだ。 だからこそ雅に潜入調査を依頼したのだが、まさか捕獲されるとは……。 あの子の力を過信していたつもりでは無いが、捕まるはずがないと確信めいた感情を抱いていたことは否めない。 雅は年齢的にも容姿的にも、美凰が好むであろう少女の特徴として当てはまる。 今頃彼女が受けているであろう凌辱を想像すると、胸が張り裂けそうだった。 元々、雅は十年以上前に起きたとある事件の被害者だった。 その事件とは、ある時国内の至る所から生まれたばかりの赤ん坊や年端も行かぬ子供を攫い、優れた暗殺者を育成するというものだった。 雅はその被害者の中でも特に長い年月の間暗殺の教育を施されており、保護した時には年齢にそぐわない高い暗殺技術を持っていた。 ひとまず彼女の親と相談して今後の処遇を決めようという話になったのだが、そこで、彼女の両親がすでに亡くなっていることを知った。 ……そう。彼女は孤児だったのだ。 最初は施設に預けようという話になっていたのだが、事件で負った心の傷や彼女の持つ暗殺者としての技術を鑑みるとそれはあまり良い選択とは思えなかった。 議論の末、同性であり警察関係者である私の元で保護し、今後様子を見ていくこととなった。 私は雅を屋敷に向かえた後は警察を辞めて、今している仕事を行いつつ幼い雅を育てた。 両親を亡くした上に事件による後遺症からか、しばらくの間雅が私に心を開くことは無かった。 しかし、私が真摯に向き合うように心掛けていると徐々に心を開くようになり、今ではすっかり懐いてくれている。 ……いつからか、懐いているというよりは私に一種の崇拝のような感情を抱くようにはなっていたが……。 ある時を境に私のことを主様と呼ぶようになったり、幼い頃に習得した暗殺者としての技術を活かして忍を目指すようになったりと、中々に破天荒な人生を送っていた。 しかし、形はどうあれ、彼女が元気に生きてくれているだけで私は十分嬉しかった。 ……止めるべきだったのだろうか。 雅が、私の為に動く忍となることを。 優れたくノ一として育っていく彼女を見て、私は、喜ばしく思うと同時に……不安だった。 いつかこうなるかもしれないと誰よりも分かっていたはずだったのに、彼女の選んだ人生を止めるのは良くないと、私は気にしないようにして彼女を応援した。 その結果が……これか……。 「……ふぅ……」 小さく息をつき、私は前髪を掻き上げた。 ……後悔しても仕方がない。 少なくとも、雅はまだ死んではいないはずだ。 彼女ならば美凰に見初められ、屋敷で他の行方不明になった少女と動揺に捕まっている可能性が高い。 死んではいないし、すぐに殺されるということは無い……と思いたい。 雅ならば屋敷から脱出して逃走してくる可能性もあるかもしれないが、それを待つよりも、警察を向かわせた方が早い。 私も元は警察関係者だったし、今でもたまに情報を提供したり等、警察の捜査に関わることも多い。 確証は無いが、美凰が怪しいと思しき根拠となる情報を提供し、奴の屋敷を調査させよう。 そう思って、立ち上がろうとした時だった。 「……んんッ……!?」 突然背後から口元に布を当てられ、私は僅かに声を漏らした。 直後、僅かに甘い芳香が鼻孔をくすぐり、私の意識を遠のかせる。 これは……西洋の国から伝わったとされる睡眠薬……!? 頭の中でそう理解した時には口から布が離され、私は畳の上に倒れていた。 意識が遠のき、強烈な眠気が襲い掛かる。 視界が闇に支配されていく中で、私を眠らせたであろう誰かが、目の前に立ったのが分かった。 何とか顔を動かしてその人を見上げた私は、僅かに息を呑んだ。 「……みや……び……?」 掠れた声で、私はそう呟いた。 意識が闇に潰える寸前、最後に見たのは……無表情でこちらを見下ろす、雅の姿だった。 --- カコーン……と乾いた竹の音が、どこからか響き渡る。 その音で、闇に沈んでいた私の意識は徐々に浮上していく。 重たい瞼を開くと、そこには薄暗い部屋が広がっていた。 外はもう夜なのか、室内を照らすのは行灯の淡い光のみ。 寝起きだからか、頭がズキズキと痛む。 咄嗟に頭を押さえようとしたところで、自分の手を動かせないことに気付いた。 これは……縛られている……? 一体、何が……? 「んんッ……♡ んちゅッ……♡」 すると、どこからかくぐもった嬌声が聴こえてきた。 同時に、ピチャピチャと何やら耳につくような水音がする。 その声はどこか聞き慣れた声のように感じ、私は咄嗟に顔を上げた。 同時に、目を見開いた。 「……雅……?」 「んんッ……ぷはッ……目を覚ましたみたいね」 私の声に唇を離しながらそう答えたのは、雅と濃厚な接吻を繰り返していた相手だった。 彼女の顔を見た瞬間、私は強く歯ぎしりをした。 「……美凰……ッ!」 「みおうさま……?♡ どうしたん、ですか……?♡」 私の声が聴こえていないのか、雅は荒い呼吸を繰り返しながら言い、美凰に縋りつく。 それに、美凰はクスリと小さく笑み、雅に視線を向ける。 「貴方の主様が目覚めたみたいだから相手していたのよ」 「あるじさまぁ……?♡」 美凰の言葉に、雅はそこでようやく私に視線を向けた。 まるで、今気付いたかのような態度だった。 その目はトロンと快楽に蕩け、私のことなど眼中にも無いような様子だった。 「雅ッ……」 「みおうさまぁ……♡ そんなことよりも、さっきのつづき、してください……♡ ごほーびほしいです……♡」 名前を呼ぶ私を完全に無視して、雅は媚びたような甘ったるい声で言いながら、腰を振って美凰に強請る。 それに、美凰は困ったように笑いながら雅の頭を撫でた。 「もう……♡ 本当に可愛いんだから♡ でも、今はちょっと取り込み中だから……また後でね♡」 鼻にかかったような猫撫で声で言いながら、美凰は雅の前髪を掻き上げ、額に口付けを落とす。 それだけで雅の表情はドロリと心地良さそうに蕩け、コクッと一度大きく頷いた。 私はそれに歯ぎしりをして、すぐに口を開いた。 「美凰、貴方は……雅に何をしたの……?」 「何を、って……?」 「雅が貴方なんかにこんな態度を取ることなんてありえないもの。……考えるに、何か妖術の類かしら?」 私の言葉に、美凰は甘えてくる雅を宥めながら、目を丸くしてこちらを見た。 しかし、すぐに小さく息をつき、「ご名答」と答えた。 「まさか、たったこれだけの情報量からそこまで察するなんて……この子から聞いていた通り、中々の切れ者みたいね」 彼女はそう言いながら、腕の中にいる雅の頭を撫でる。 雅はそれに目を細め、気持ちよさそうに受け入れた。 ……あの子があれ程までに感情を露わにして誰かに甘える姿など、これまで見たことがあっただろうか。 私に対してですら、どこか最後の一線だけは超えないようにしていたと言うのに……。 悲しみというよりは、雅という人間をここまで歪められる美凰が施したであろう妖術に対し、一種の恐怖の感情を覚えた。 「……翡翠、ねぇ……」 すると、美凰は独り言のように私の名前を呟いた。 突然名前を呼ばれ、私は驚きつつも「え……?」と聞き返した。 それに、彼女はまるで愛玩動物を愛でるかのような手つきで雅の頭を撫でながら続けた。 「いえ……少し、聞き覚えのある名前だと思ってね。それに、貴方ほど聡明で優秀な人間、私が知らないはずが無いもの」 「……何が言いたいの……?」 「貴方、警察組織に所属していたことがあるでしょう?」 ドクンッ……と、心臓が強く脈打った。 どうして……それを知っている……? あぁ、確かに私は、元々警察の人間だ。 だが……基本的に私は、裏方の人間だった。 女の私では、事件の犯人が逃走した際に捕獲したり、乱闘になったりした際に圧倒的に分が悪くなる。 その為、基本的には裏方に徹し、他の警察が入手してきた情報を手掛かりに事件を解決に導くのが役目だった。 だからこそ、私が警察組織に所属していたということを知っているのは、警察関係者以外にはいないはずだ。 「な……何の話だか……」 「それだけじゃないわ。貴方は警察組織の中でも、特に優秀な部類だったはずよ。だって、十年前のあの事件を収束させたのも、貴方でしょう?」 「……ッ!?」 淡々とした口調で言う美凰に、私は言葉を失った。 最早、平静を保つことどころか、動揺を悟られないように振る舞うことすら出来なかった。 なぜなら、十年前のあの事件……幼い子供達が誘拐され、暗殺者として育てられようとしていた事件を解決したのが私であることは、当時警察組織に所属していた人間しか知らないはずだからだ。 あの事件を解決した後、私はすぐに警察を辞めた。 理由は、誘拐事件の犯人達が事件を解決した人間が私であることを突き止め、報復に来ることを事前に防ぐ為。 警察を辞めた後、私が警察組織に所属していた痕跡となる情報は全て処分し、雅を連れて当時事件が起きた町から遠く離れたこの土地に移り住んだのだ。 しかも、この女は私達よりも前からこの町に住んでいた。 私が十年前の事件を解決した人間であることな疎か、警察の人間だったことすら知っているはずが無いのだ。 「……どうして……それを……」 「十年前、私の邪魔をした人間がどんな人だったのかを知る為に、あらゆる手段を使って調べ尽くしたのよ。……あれだけ大きな事件を解決した人間とは思えないくらいに情報が少なくて、かなり苦労したわ」 相変わらず飄々とした態度で語る美凰に、私は言葉を失った。 かなり苦労した、なんて一言で済ませられる程、容易く突き止められるような痕跡は残していない。 一体、どんな手段を用いて調べたというのだ……? そして、何より……── 「──……邪魔……?」 美凰の言葉で、どうしても聞き逃せなかった言葉。 ……十年前、“私の邪魔”をした人間……? おかしい。あの事件の犯人は、当時私の住んでいた町を根城にしていた小悪党共だったはずだ。 どうして、私が美凰の邪魔をしたことになるのだ……? 「……あぁ、そういえば言ってなかったわね。十年前の事件を起こした犯罪組織……実はアレ、私が創立したものだったの」 「……は?」 予想外の言葉に、私はつい素っ頓狂な声で聞き返してしまう。 すると、彼女はクスクスと笑いながら続けた。 「と言っても、直接関わっていた組織とは幾つもの組織を経由しての繋がりだったから、貴方達が逮捕した子達は私の存在なんて突き止められるはずがないわ」 ……確かに、逮捕した奴等に尋問しても、その裏に繋がっていた組織の存在など一切漏らさなかった。 私の引退後にそれ以上の情報も出てきたかもしれないが、こうして美凰が悠々自適に暮らしている辺り、少なくとも美凰まで辿り着くことは出来なかったのだろう。 「……どうして、そこまでして……あの事件を……?」 「……? そんなの、決まっているじゃない?」 私の疑問に、美凰は冷たい笑みを浮かべながら言い、腕の中にいる雅の頭を撫でた。 かと思えば、彼女の頭を優しく抱きかかえて頬擦りをして愉悦の笑みを浮かべながら、彼女は続けた。 「この子みたいな、可愛いくノ一ちゃんを飼ってみたかったの♡」 「……は……?」 「当時は妖術の知識も無かったし、だったらまだ生まれて間もない子供を攫って、私好みのくノ一を作ろうって思ったの。でも、自分でやるのは少し危険だし、何よりも面倒でしょう? だからとある組織に、沢山の子供達を優秀な暗殺者に育てて商売すれば儲かるんじゃないかって提案したの。そこからはその組織も幾つかの組織を経由して、最後は私の行ったことも無い町の小悪党共が計画を実行してくれたってわけ。まぁ、誰かさんのせいでその計画は頓挫したけどね」 悪びれることもなく淡々と語りながら、美凰は雅の頭に頬擦りし、その体をいやらしく撫で回す。 幼い頃に自分を誘拐し、今ではこうして自分の人格を好き勝手歪めて楽しんでいる相手にベタベタと触られているにも関わらず、雅は心地よさそうに美凰の手を受け入れる。 「雅ッ!」 咄嗟に、私は雅の名前を呼ぶ。 しかし、彼女は私の声に反応せず、美凰のことだけを見つめている。 私はそれに拳を強く握り締め、続けた。 「貴方だって聞いていたでしょう!? さっきの美凰の言葉ッ!」 「っ……」 私の言葉に、雅は僅かに反応を示した。 これは、私の声に答えたというよりは、美凰の名前に反応したと考えるのが妥当だろう。 だが……今は、それで良い。 美凰にばかり向けられていた意識を、一瞬でもこちらに向けられたというだけで、十分だ。 「美凰は昔、貴方を誘拐して暗殺者として育てようとしていた組織を作った人間なのよ? しかも、今ではこうして貴方の人格を歪めて、自分の所有物にしようとしている。……そんな相手に体を許して、貴方は何とも思わないの?」 「……?」 私の言葉に、雅はキョトンとしたような表情で首を傾げた。 正気を取り戻そうとしているというよりは、だからどうした? と言いたげな、私の言っていることそのものが理解出来ていない様子だった。 そんな雅の頭を撫でながら、美凰は続けた。 「無駄よ。この子には私以外の声は聞こえない。だって、この子の心はもう私のモノなんだもの」 「……どういう意味?」 美凰の言葉に、私はそう聞き返す。 すると、彼女はニヤリと小さく笑み、こちらにスッと手を差し出してきた。 と思えば、その掌の上に、どこからか現れた小さな光の粒が集まっていく。 粒は、一つ一つは埃のような矮小なものだったが、集まっていくと手毬くらいの大きさになっていく。 やがてそれは、カッ! と強い光を放つ。 光が収まると、そこには、白く濁った掌サイズの石が一つ乗っていた。 「……それは……?」 「これは、雅ちゃんの心を具現化したものよ」 「……は……?」 突拍子のない言葉に、私は間の抜けたような声で聞き返した。 すると、彼女はクスリと笑みを浮かべ、手の中にある石を弄びながら続けた。 「説明するよりも、見せた方が早いわね。……桜」 「……はい」 美凰がそう言うと、どこからかそんな返事が聴こえた。 と思えば突然部屋の襖が開き、一人の少女が現れる。 呼ばれた名前の通り、綺麗な桜色の着物を身に纏った、美麗な顔立ちをした少女だった。 しかし、そんな綺麗な顔立ちにはそぐわない、自我の光の失せた虚ろな目をしていた。 「桜、例のモノを持って来て?」 「はい。かしこまりました」 美凰の命令に、桜は抑揚の無い声で返事をすると頭を下げ、部屋から出ていった。 少しして再度部屋の襖が開くと、そこには、木の箱のようなモノを持った桜が立っていた。 彼女は静かに部屋の中に入ると、私と美凰の間にその箱のようなものを置いた。 次いで、美凰と私の右手側に当たる場所に、それぞれ小さな台のようなものを一つずつ置いた。 「ご苦労様。もう下がって良いわよ」 「失礼します」 美凰の言葉に、桜はそう言うと頭を下げ、部屋から出ていった。 ……あの桜という少女は、確か行方不明になった少女の一人だったはずだ。 やはり、雅だけでなく、他の少女達もこうして妖術で操っているのか……。 その事実に静かに唇を噛みしめていると、美凰はトントンと箱の上を叩いた。 見ると、そこには九×九のマス目が描かれており、私と美凰の側にある三列に駒のようなものが規則的に並んでいる。 黒墨で何やら漢字が二文字ずつ書かれている、正五角形の木彫りのソレは、慣れ親しんだ将棋の駒だった。 「……この将棋盤が、雅の心を奪った妖術にどう関係するの?」 「関係する、というか……その妖術そのものと言っても良いかしら」 「はぁ……?」 これまた突拍子のない言葉に、私はつい聞き返す。 すると、彼女は駒を一つ指で摘まみ、視線の高さまで持ち上げて続けた。 「この駒にはね、とある妖術が施されているの。……この将棋盤を使って対局をする人間の心を奪う妖術が」 「……何……?」 「説明すると長くなるんだけど……まぁ、簡単に纏めるわね。対局が始まると、対局している人間の心が、それぞれ自陣の駒に籠められるの。その量は駒の強さによって変わるわ」 淡々とした口調で紡がれる言葉に、私は言葉を失った。 この女は……何を言ってるんだ……? 絶句する私に、彼女は手の中にある石を弄びながら続けた。 「私はこの駒を使って、雅ちゃんと対局したの。この駒で将棋をすると、駒を取ると相手の心が読めるようになって、取られた自分の駒を場に出されると相手のことが好きになっちゃうの。そして、対局で負けると自分の心は全て相手のモノになって……あとはまぁ、見ての通り?」 そこまで言うと、彼女はクスリと小さく笑った。 もしも雅の現状を見ていなければ、現実味の無い御伽噺だと笑い飛ばせただろう。 しかし、美凰に縋りついて甘えている雅を目の前にしてその説明をされると、途端に彼女の話は信憑性を帯びた。 突然現れた石が雅の心を具現化したもの……という話も、恐らく本当なのだろう。 なぜなら、美凰が手の中にある石を弄ぶ度に……その手の動きに合わせて、雅の体がビクビクと震えているからだ。 やはり、あれが……雅の心……。 「……ねぇ、私と勝負しましょう?」 すると、美凰がそんなことを提案してきた。 突然の提案に、私は「……はい?」と聞き返す。 それに、彼女は将棋盤の横にある台の上に雅の心を具現化させた石を置き、緩やかに笑みを浮かべて続けた。 「貴方が勝てば、雅ちゃんの心は返してあげるし、この屋敷からも逃がしてあげる。その後は……警察に私の情報を送り付けるなり、二人で慎ましやかに隠居生活を送るなり、好きにすれば良いわ」 「……貴方が勝ったら?」 「今の雅ちゃんを見て分からない?」 冷たい笑みを浮かべながら言う美凰に、私は静かに雅に視線を向けた。 雅は先程の美凰の愛撫によりすっかり蕩けてしまい、すぐ傍にへたり込んで虚空を見つめながらビクビクと体を震わせている。 彼女の様子に、私は静かに生唾を飲み込んだ。 「……もしも私がこの勝負を受けないと言ったら? どうするつもり?」 「その時は、貴方を地下牢にでも捕獲しておくだけよ」 なるほど……拒否権は無い、というわけか。 雅が彼女との対局を受けてしまったのも、同じような条件を出されたのだろう。 彼女が私に将棋で勝てたこと自体は一度も無いが、将棋自体は比較的強い方だった。 とはいえ、この女のことだろうから、雅にはこのカラクリを教えないまま対局を挑んだ可能性は高い。 卑怯な女だと、内心で毒づく。 「……分かったわ。その勝負……受けるわ」 拳を強く握り締めながら、私はそう答えた。 すると、美凰は両手を合わせて「良かった♡」と嬉しそうに答えた。 盤上を見ると私の所に玉将が置いてあったので、先手は私となる。 雅と対局をする時は常に角行と飛車を抜いての後手だった為、ちゃんと全て駒がある上での先手はかなり久しぶりに感じた。 美凰の強さは分からないが、現状は先手である私が有利なことは変わらない。 油断はせず、とにかく勝つことだけを考えよう。 しかし、ここで気になるのは、この駒に私の心が詰まっているという話だ。 あの話の真偽は不明瞭な部分はあるが、とにかく勝たなければならない以上、あまり駒が取られない方が良いことには変わりない。 冷静に、駒を取られないようにしつつ、とはいえ早く対局を終わらせるべく深く攻め込んでいく。 「ふぅん……? 随分大胆に攻め込むのね?」 すると、美凰が戦況を見つめながらそう呟いた。 彼女の言葉に、私は一瞬顔を上げたが、すぐに将棋盤に視線を落として口を開いた。 「貴方は随分と余裕そうね? 駒を取るつもりも無ければ、攻め込むつもりも無い。まるで……勝つ気が無いと云わんばかりに」 「そんなことないわよ。勝つつもりはあるわ。駒を取らないのは、まだその時では無いから」 美凰の言葉に、私はピクリと眉を顰める。 ……まるで、私が有利な現状が、彼女に作られたものであるかのような……そんな感覚……。 しかし、それなら彼女が動き出すよりも前に、対局を終了させればいい。 そう考えた私は、静かに彼女の歩兵を取り、自分の歩兵を前に出す。 「っ……」 美凰から取った歩兵を摘まみ上げた途端、駒が僅かに熱を持っていることに気付く。 トクンッ……トクンッ……と僅かに脈動し、何かが伝わってくる。 自分が負けるはずが無い、と言いたげな圧倒的自信と余裕が、駒を通してひしひしと伝わってくる。 これが……美凰の感情だと言うのか……? 「フフッ、駒が取られちゃったみたいね♪」 驚く私に対し、彼女はやけに余裕ぶった様子で言う。 だが、これで彼女が言ったことが全て事実だったことが分かった。 ……猶更、駒を奪われるわけにはいかない。 美凰が駒を動かすのを横目に見つつ、私は台の上に歩兵の駒を置いた。 駒が掌から離れても、奴の感情は脳に直接伝わってくる。 この程度ならば意識を集中させれば大したことは無いが、取った駒が増えてくると集中を乱される可能性がある。 クソッ……中々厄介だな、この将棋は……。 もしもこれで何も知らずに対局などしていたら、今頃かなり取り乱していたかもしれない。 ……と、そこまで考えて私はふと気付き、顔を上げた。 「……そういえば、美凰」 「うん? 何かしら?」 「貴方はどうして、この将棋盤の秘密を対局前に私に教えたの?」 私はそう聞きながら、彼女の歩兵をもう一つ取る。 それに、彼女はしばしキョトンとした表情を浮かべていたが、やがてフッと笑って自陣の桂馬を動かした。 「貴方程の聡明な人間には、小細工や不意打ちはそこまで効果が無いと思ったもの。だったら、最初から正々堂々と勝負した方が、色々と楽なのよ」 「……その口振り……まるで、自分が勝つことは当たり前みたいね」 「えぇ。私が負けるはずないでしょう?」 緩く笑みを浮かべながら言う美凰に、私はヒクッと頬を引きつらせた。 そんな余裕、一体どこから湧き上がってくるんだか……。 だが、こんなものは所詮安い挑発に過ぎない。 私は小さく息をつき、桂馬を動かしてもう一つ歩兵を取る。 この調子なら、私の駒を取られることなく、美凰の王将を勝ち取ることが出来る。 彼女が何か奥の手を隠している可能性もあるが、それならば奥の手を出される前に勝負をつけるのみ。 しかし、油断はするまい。このまま何事も無く勝てれば、苦労は無い。 もしもここですんなり勝てるような相手ならば、そもそも雅が捕まることなど無い。 とにかく集中して、どんなに突飛なことが起きたとしても対処できるように気を張っておかなければならない。 一瞬の油断も許されない。彼女の思考を、何手先までも読まなければ……──。 クチュッ……くちゅ……ぐちゅッ……。 「はぁッ……♡ んんッ……♡ あはぁッ……♡」 どこからか聴こえた、どこか淫靡な響きのある水音と、艶やかな嬌声。 聞き覚えのある声で紡がれた淫音に、私は咄嗟に顔を上げた。 そこには……服の中に手を突っ込んで秘部に手をあてがい、まるでこちらに見せつけるように自慰に耽る雅の姿があった。 「みや……び……?」 「はぁっ……♡ んんッ……♡ みおう、さまぁ……♡ あぁっ……♡」 雅は美凰の名前を紡ぎながら、股間部にある割れ目に指を抜き差しし、淫靡な水音を室内に響かせる。 頬を紅潮させ、荒い呼吸を繰り返しながら自慰を繰り返すその姿に、私は呆気に取られた。 口を開けて言葉を失うその姿は、恐らく傍から見ればかなり間抜けな姿になっていることだろう。 しかし、今の私にはそんなことを気にする余裕も無く、目の前で行われている痴態に言葉を失った。 唖然。 呆然。 愕然。 そんな言葉が、今の私の状況を表すにはよく似合う。 「どうしたの? 次は貴方の番でしょう?」 すると、そんな声が私の鼓膜を震わせた。 私はそこでハッと我に返り、盤上に視線を戻した。 そこでは、すでに美凰が自分の手番を終えており、ジッとこちらを見つめていた。 ……彼女の手番を……見逃した……? 「────────ッ!」 まるで雷にでも打たれたかのような強い衝撃が、私の体を貫いた。 そうか……あの雅の痴態は、私の集中力を乱す為の美凰の策略だ……ッ! バッと顔を上げると、彼女が台の上に置いた雅の心を具現化した石に手を置いているのが見えた。 よく見れば、ただ白く濁っていただけだったはずの石が、僅かに白い光を放っている。 あの石を使って雅を……ッ! 「貴様ッ……! 雅になんてことを……ッ!」 「雅ちゃん……?」 私の言葉に、美凰はまるで今気付いたかのような素振りで、ユラリと雅に視線を向けた。 未だに自慰に耽る雅を見ると、彼女はクスリと小さく笑みを浮かべて、「あらあら」と続けた。 「これはまた派手にやっちゃって……」 「あはッ……♡ みおうさまッ……みおうッ、さまッ……!♡ あぁッ♡」 嬌声混じりに美凰の名前を呼んでいた雅は、突然ビクンビクンッ! と体を震わせながら、背筋を弓なりに反らした。 かと思えば、弄っていた秘部からプシッ! プシャッ! とまるで水鉄砲のような勢いで透明の液体を噴出させた。 勢いよく噴出した液体が辺りに飛び散り、畳に淫靡な染みを作った。 将棋盤や盤上の駒は無事だが、そういう問題では無い。 言葉を失う私を他所に、美凰はクスクスと楽しそうに笑った。 「もぅ……雅ちゃんったら♡ そんなに絶頂の瞬間を私に見て欲しかったの?」 「あは……♡ えへへ……♡ みおうさまぁ……♡」 うっとりした様子で美凰を呼ぶ雅に、私は唇を強く噛みしめ、美凰を睨みつけた。 コイツは……この女はッ……どこまで、性根が腐っているんだ……ッ! 気付けば私は拳を強く握り締めており、手の甲に血管がくっきりと浮き出ている。 咄嗟に力を緩めると、指に鈍い痛みが走ると共に、掌に鋭い痛みが走った。 手を広げて掌を見ると、ツー……と血が垂れていることに気付いた。 どうやら、爪が食い込んで負傷したらしい。 私は血の滲む手をグッと握り締め、美凰を睨んだ。 「……この対局が終わったら、貴方のことを警察に突き出して、相応の罰を受けて貰うわ」 「えぇ、別に構わないわよ? ……対局で勝つことが出来れば、ね」 怒る私に対し、美凰はあくまで余裕の笑みを崩さぬままそう言った。 奴から取った歩兵からも、相変わらず圧倒的な余裕の感情が伝わってくる。 今は余裕かもしれないが、すぐにその表情を焦燥に染め上げてやる。 そんな風に考えながら、私は盤上に視線を戻し……── 「──……ッ」 直後、私は美凰の本当の目的に気付いた。 そうか……そういうことだったのか……ッ! ハメられた……ッ! 私は愚かにも、奴の術中にまんまとハマってしまった……ッ! この女が突然雅に自慰を強要した理由。それは、確かに私の集中力を乱すことだった。 しかし、それは一時的なものでは無い。先刻まで続いていた最高潮の集中状態まで、少なくともこの対局中に一切持っていかせない為のものだ。 事実、ピンと張り詰めた糸のように続いていた集中力が、今ではとっくの昔にぷつんと途切れ、完全に霧散してしまっている。 加えて、雅を汚されたことにより込み上げた怒りが、私の思考を掻き乱す。 一切の過誤が許されない現状で、上手い具合に集中できないこの状況は非常にマズい。命取りと言っても過言では無い。 しかし、仮に美凰の策略を知った上で雅の痴態を見たとして、果たして私は今のように取り乱さずに対局に集中することが出来ただろうか。 答えは否。 どう転んだとしても、私の集中は確実に乱されていた。 美凰はそれを全て見越した上で、雅に自慰を強要しているのだ。 先程の集中力を取り戻そうと試みるも、未だに胸の奥から込み上げてくる怒りが邪魔をする。 オマケに歩兵から伝わってくる美凰の感情が、その怒りを助長してさらに私の心を掻き乱す。 今の私にとって集中力とは砂のようなもので、掴もうとすればする程、指の隙間から零れ落ちていくかのようだった。 それでも、私は何とか働かない頭を必死に動かし、角行を使って歩兵をまた一つ取る。 何はともあれ、現状私が有利なことには変わりない。 少なくとも、今すぐ追い込まれるようなことは無いはずだ。 美凰が追い上げてくるよりも前に集中力を取り戻し、一気に突き放すしか無い……! 今はとにかく、気を取り直すまでの間追いつかれないようにするしか……──。 「はぁッ……♡ あんッ♡ はぁんッ♡」 私の集中を乱すように、雅はまたもや自慰を再開する。 さっき絶頂したばかりじゃない……! 内心でそう嘆くものの、考えても見れば幼少期は暗殺者として育てられ、今はくノ一として活動している彼女だ。 体力に関しては、ほぼ無尽蔵にあると考えても良い。 「フフッ、かなり取り乱しているみたいね」 すると、美凰が笑みを浮かべてそう言いながら駒を動かす。 彼女の言葉に重ねるように、淫靡な水音と嬌声が鳴り響く。 そのせいで相変わらず私の心は乱され、手繰り寄せていた集中力が零れ落ちていく。 「……さぁ、何の話かしら」 だが、動揺を悟られぬよう必死に平静を装いながら、私は駒を動かした。 駒を取られない内は、私の感情を悟られることは無い。 表情に出さないように……少しでも、私の動揺を悟られないように……。 「流血するくらい強く手を握り締める程に悔しがっておいて、その言い訳は苦しいんじゃないの?」 飄々とした態度で言いながら、美凰は歩兵を一つ前に出す。 ……まるで、取って欲しいと云わんばかりに、無防備に……。 「……」 私は彼女の言葉には答えずに、差し出された歩兵を取る。 とにかく、今は出来る限り美凰の駒を取って、少しでもこちらの有利を保とう。 奴の狙いは分からないが、駒を取られない方が良いということ自体は変わらない。 集中しろ……とにかく、少しでも早く、この対局を終わらせるんだ……! しかし、それから続いた対局は、恐ろしく淡々としたものだった。 早急に王手にしなければと深く攻め込んでいくものの、中々上手く攻め込めない。 美凰は私の駒を取ることは一切なく、まるで攻める気が全くないような妙な手を打っていた。 それなのに私が奥まで攻め込むことは出来ず、美凰から奪った歩兵だけが増えていく。 横では雅が相変わらず自慰を続けており、中々本調子に戻ることが出来なかった。 とは言え、それでも好機があれば美凰の駒を取り、何とか彼女の歩兵全てを勝ち取ることは出来た。 分かるのは相変わらず感情の機微のみではあるが、それでも歩兵八個分ともなるとかなりのモノで、僅かな感情の起伏まで分かる程になっていた。 ……と言っても、伝わってくるのは相変わらず圧倒的な余裕の感情しかないが……。 「……頃合いかしら」 すると、ポツリと美凰がそんなことを呟き始めた。 ……頃合い……? 私は顔を上げ、奴の顔を見た。 すると、彼女は私の顔を見てクスリと笑みを浮かべ、盤上にある私の飛車を摘まんだ。 「じゃあ、飛車は貰うわね」 彼女はそう言うと私の飛車を盤上から取り、今まで自陣から一切動いていなかった角行を、先程まで飛車の駒があったマスに置いた。 それに、私はドクンッ……! と自分の心臓が脈打ったのが分かった。 なぜなら、先程の角行と飛車の位置関係は、雅が自慰を始めた少し後からほとんど変わってないものだったから。 そう。 私の飛車は……ずっと前から、いつでも勝ち取れる状態にあったのだ。 しかし、美凰は今の今まで、それをしてこなかった。 気付いていなかったというわけでは無い。 奴はさっき、“頃合い”だと言わなかったか……? つまり、歩兵を全て失うことも、一見私が有利に見える現状も全て……奴の計算の範疇だったのではないか……? 「ッ……!」 ゾクリ、と、背筋に寒気が走る。 心臓が激しく脈を打ち、嫌な汗が体中から噴き出す。 つまり、私はずっと、奴の掌の上で踊らされていたということか……? いつから? 雅が自慰を始めた時か? 私が初めて奴の歩兵を取った時か? それとも……最初から……? 「どうしたの~? 次は貴方の番よ?」 クスクスとどこか楽しそうな笑みを浮かべながら言う美凰に、私は答えられない。 この女は……何なんだ……? 最初から、今の今まで、この対局の支配権を握っていたというのか……? 将棋でそんなこと、可能だと言うのか……? いや、そもそも……この将棋に限ったことでは無いのではないか……? 改めて考えても見れば、あまりにも出来過ぎている。 十年前の事件の犠牲者である雅と私が移り住んだ町に、偶然あの事件の首謀者が暮らしていたことも。 十年越しに起きた、似たような事件の犯人が美凰だったことも。 それに気付いた私が、彼女の館にくノ一であり十年前の事件の被害者である雅を潜入させたことも。 一体どこまで、本当の“偶然”だったんだ……? 「ッ……ぁ……ッ……」 言葉が出てこない。 呼吸が荒くなる。 指先が震える。 心臓が激しく脈を打つ。 気付いてしまった。 目の前にいる女の、本当の異常性に。 この女の思考も、頭脳も、存在も……美凰という女の何もかもが、私の常識で推し測れる範疇を超えている。 こんな化け物……どう倒せば良いと言うんだ……? 人間に対してこんな感情を持つのは初めてだ、と言いたいが……そもそも、目の前の存在を自分と同じ人間であると認識することすらおこがましい。 最初から……十年前の事件を解決したあの日から、全て目の前の女の描いた物語を辿っていただけだった。 くノ一を手に入れたいという願いと、その願望を阻んだ私への復讐を叶える為の物語を。 まさに、この対局と同じだ。 ずっと私が勝者だと信じて疑わずに進めてきたが、蓋を開けてみれば、最初から奴の掌で踊らされていただけの話。 この対局だって、言ってみれば物語の一部。 私や雅が美凰の描く物語の登場人物だとすれば、美凰は云わば、物語の作者。 そもそも勝負が成り立っていない。だって、同じ土俵に立っていないのだから。 登場人物が……その物語の作家に勝てるはずが、無いじゃないか……。 「あら、もう心が折れちゃったかしら。……聡明な子はダメね。こんなちょっとしたことで勘付かれるなんて」 飄々とした態度で語る美凰に、私は答えられない。 彼女の言う通り、私の心はすっかり折れていた。 勝ちたいという気持ちはある。勝たなければならないという、一種の使命感は心の片隅で燃えている。 しかし、目の前の女に打ち勝つ未来像が、今の私には全く見えなかった。 絶望。そんな二文字が、私の体に重く圧し掛かる。 正に、将棋で言うところの詰みの状態だった。 指が、手が、体が……全く動かせない。 頭が働かない。思考が纏まらない。集中力など、遥か彼方に消えてしまった。 では、投了するか? だが、ここで負けたら、私はどうなる……? 雅は……? 「ッ……」 唇を噛みしめ、私は将棋盤を睨む。 これはもう、目と鼻の先まで迫っている闇の中に、一歩踏み出すような行為なのかもしれない。 しかし、ここで少しでも抗わなければ、すぐ後ろまで来ている死神に背中を押されて突き落とされるだけだ。 ……選択肢など……そもそも、私にはないんだ……。 私は震える指を歩兵の駒に沿え、一つ前に出した。 すると、美凰はそれを見てクスリと小さく笑み、「良かった」と言いながら盤上にある香車の駒を摘まんだ。 「すっかり心が折れたみたいだったから、ここで投了なんてつまらないことをするんじゃないかと思ったわ」 「……」 嬉しそうに語る美凰に、私は答えない。 仮に私が投了したとしても、どうせ、他にも私を追いやる術を持っているに違いない。 結局私は、どう転んだとしても、奴の掌の上で踊らされることしか出来ないのだろう。 「じゃあ……角も頂くわね」 「ッ……」 当たり前のように角行を奪っていく美凰に、私は息を呑んだ。 さっきの飛車と同様に、角行も何手か前から容易に奪える状態だったことに気付いたからだ。 何より、それにずっと気が付かなかった自分に驚いた。 今の私の視野では気付かなくても驚かないが、恐らくこの状態は、雅が自慰を始めて私の集中力を乱すよりも前から出来ていたものだ。 あの集中力の中でも盲点を突かれていたとなれば、今の私に勝ち目など……──。 「……今の内に、聞いておきたいことがあるわ」 私の言葉に、美凰は目を丸くして顔を上げた。 今は私の手番だから、私が駒を動かさない限り、対局は動かない。 奴の言っていたことを思い出してみると、奪われた駒を盤上に出されると、相手のことを好きになると言っていた。 そして、駒に詰まっている心の量は、その駒の強さによって変わる。 ここで歩兵を出したとしても焼石に水でしかないだろうし、何より私の歩兵は一つたりとも減ってない為、どこに出しても二歩にしかならない。 加えて、将棋の駒の中で特に強い飛車と角行を取られた今、私の勝ち目など無に等しい。 だったら、せめて……正気を保っていられる今の内に、聞いておきたいことがある。 私は小さく息をつき、ゆっくりと口を開いた。 「貴方はこんなことをして……何がしたいの……?」 私の問いに、美凰は僅かに目を丸くして、私を見つめる。 幾つもの組織を使って十年前の事件を起こし、十年掛けて私と雅を陥れて……何がしたかったのか。 彼女の頭脳は、使い道が正しければ、今頃人類に多大なる恩恵をもたらしていたかもしれない。 しかし、その可能性を捨てて道を踏み外した理由が、私は知りたかった。 彼女はしばらく不思議そうな表情を浮かべていたが、やがて緩く笑みを浮かべ、静かに口を開いた。 「私はただ、自分が欲しいと思ったものは何が何でも欲しいだけよ。……“今回”は、可愛いくノ一が欲しかっただけ」 小さく笑みを浮かべながら言う美凰に、私は頬を引きつらせた。 ……天才の考えることは分からない、とは、正にこのことだな。 たかがそれだけの理由でここまでのことが出来るなど、私の理解出来る域を超えている。 狂っている、なんて稚拙な言葉で済ませられるものではない。 しかし、彼女の答えを聞いて……少しだけ、安心した。 私が未熟だから負けるのではない。そもそも、たかが人間が敵うような相手では無かったのだ、と。 眼球を動かし、横で愛おしそうに美凰を見つめながら自慰を続ける雅を見つめる。 せめてもの心残りは、彼女を救えないことか。 私の未熟さに彼女を巻き込んでしまったことが、私の心に僅かに影を落とす。 しかし、くノ一を手に入れたかったという美凰の野望を考えれば、彼女に見初められた雅はこうなることが運命づけられていたのかもしれない。 ……今更悔やんでも、仕方のないことか。 「ふぅ……」 小さく息をつき、私は盤上を見つめる。 ゆっくりと歩兵に手を伸ばし、一つ前に進める。 すると、美凰はクスリと小さく笑みを浮かべると、台の上に乗せていた飛車の駒を摘まみ上げる。 その手をゆっくりと盤上に持っていき……パチリ、と乾いた音を立てて、駒が盤上に置かれた。