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あいまり
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【先行公開版】作られた恋情に酔いしれて

 天井も床も壁も、全てが真っ白な無機質な部屋。  室内は青白い電灯で照らされており、その無機質さに拍車をかけているような気がする。  その部屋の中で、私は手術台のようなものの上に寝かされていた。  着ていたはずの服は全て脱がされて一糸纏わぬ裸体を外気に晒し、両手には手錠が掛けられており、背中の方で固定されている。  せめて手を使って胸と股間部を隠したいところだが、薬でも打たれたのか、首から下を全く動かすことが出来なかった。  首から上は自由に動かせるので、何とか動かして横を見てみると、そこでは白衣を着た女が手に持った書類をペラペラと捲りながら、口を開いた。 「薬師寺アカリ、24歳。警察の特殊捜査課に所属しており、この研究所が違法な研究を行っているという情報を嗅ぎつけ潜入した。身長は163cmで体重は……」 「わざわざ音読するなッ!」  淡々と語る白衣の女、松戸アヤノに、私はそう怒鳴った。  すると、彼女はクスクスと笑いながら黒縁の眼鏡をクイッと指で上げ、口を開いた。 「ちょっと……それ、アカリちゃんが言うの?」 「何を……ッ!」 「だってこれ、全部君が教えてくれた情報じゃない」  馬鹿にするように笑いながら言う松戸に、私はカァッと自分の顔が熱くなるのを感じた。  彼女の言う通り、先程の情報どころかそれ以上の私自身に関する事細かな情報は全て、私が自分の口で言ったものだった。  しかし、決して自分から言いたくて言ったのではない。  最初は、この研究所に潜入した目的どころか、自分の名前すら漏らそうとはしなかった。  だが、彼女に何か薬を打たれた途端口が言うことを聞かなくなり、聞かれるがままに私の個人情報を全て伝えてしまったのだ。  先程言っていた身長や体重、スリーサイズなどの身体に関わる数値的な情報は勿論のこと。  住んでいる場所や家族構成や交友関係等に関する細かい個人情報に加え、誰にも言っていないような秘密や性経験等の情報まで、文字通り私に関する情報全てを洗いざらい吐かされた。  奴の手に持つ書類には、私という人間の全てが詰まっていると言っても過言ではない。  彼女の言った情報も、当然全て正しい。  私は警察の特殊捜査課に所属しており、今回はこの研究所にて法律に違反した研究が行われているという報告があり、密かに潜入した。  そして、罠にかかり、こうして囚われたのだ。  自分から捜査内容や警察の機密情報まで吐かされた時のことを思い出し、私は強く歯ぎしりをした。  すると、彼女は楽しそうに笑いながら、手に持った書類を閉じた。 「いやぁ、本当に良い情報を吐いて貰ったよ。自白剤の効果も確かめられたし、一石二鳥だ」 「ッ……私をどうするつもりだッ!」  平坦な口調で言う松戸に、私はそう声を張り上げる。  すると、彼女はユラリとレンズ越しに視線をこちらに向け、薄い笑みを口元に浮かべた。 「どうって言われても……まぁ、安心しなよ。心配しなくても、少なくとも殺しはしないからさ」 「何……!?」 「警察に精通している人間なんて、利用価値に満ち溢れているじゃない」 「利用……?」 「ご察しの通り」  松戸はそう言いながら、こちらに歩いて来て、閉じた書類で仰向けになった私の腹を軽く叩いた。  この部屋のように無機質な目でこちらを見下ろす松戸に、私は何とも言えない不快感を味わった。  すると、彼女はニヤリと怪しく笑って続けた。 「この研究所では、君の言う通り違法な研究を行っている」 「なッ……!?」  あっさり認める松戸に、私は言葉を失った。  そんな私を気にする素振りも見せず、彼女は眼鏡の位置を正し、淡々とした口調で続けた。 「この研究所では、主に様々な薬物の研究をしていてね……俗に言う脱法ドラッグは勿論、君に使った筋弛緩剤や自白剤を始めとした、少々特殊な薬も色々と研究しているんだよ」 「何だと……!?」 「作っているものもそうだが……実験方法もちょっとアレでね。やはり人間を使って正確な結果を出したいが、私の研究は検体の消費も多いし、そこにはあまり金を掛けたくない。だから、裏のルートで検体を仕入れたり、時には自分で手段を選ばず調達したりするのさ」  悪びれる様子も無く平坦な声で紡がれた内容に、私は言葉を失うことしか出来なかった。  まさか、コイツは……何の罪もない一般人を様々な手段で捕らえ、危険な薬物の実験体にしてきたと言うのか……!?  しかもそれを、悪いことだと一切思っていないのか……!?  言葉を失っていると、奴は私の腹の上に乗せていた書類を持ちあげ、続けた。 「まぁ、これだけのことをしているから、当然警察には目を付けられているだろうと思っていたさ。だからこそ、侵入者対策は念入りにさせて貰ったよ。おかげで君のような優秀な人間を手に入れることが出来た」 「……つまり、私も薬の検体にするということか?」  私の問いに、奴は「まさか」と言いながらケラケラと笑った。  そのふざけた態度に、私は舌打ちをする。  奴の非人道的な行いは、許しておくわけにはいかない。  本当なら今すぐにでもとっ捕まえて相応しい罰を与えてやりたいが、しかし、体が言うことを聞かない。  目の前で笑うマッドサイエンティストに腹の底から湧き上がる怒りを感じていると、彼女はフッと表情を緩め、口を開く。 「さっきも言っただろう? 警察に精通した人間は、かなりの利用価値があるんだ。……使い捨ての検体にするなんてもったいないこと出来ないよ」 「……貴様……」 「流石の私でも、警察に目を付けられた現状は好ましくない。今回のように一人の侵入者程度なら簡単にあしらえるが、流石に警察組織に動かれると色々と厄介なのさ。……そこで、だ」  奴はそう言いながら、私の頬に手を添えた。  頬に添えられた手は氷のように冷たく、私はビクリと肩を震わせる。  すると、奴は強引に私と目を合わさせ、無機質な笑みを浮かべながら続けた。 「君には……私の為に働く駒になって欲しい」 「……は……?」  相変わらずの淡々とした口調で放たれた一言に、私はつい聞き返した。  私に、松戸の為に働く駒になれ……だって?  それはつまり、奴の非人道的な研究に協力しろと言っているのか……? 「そんなの、嫌に決まってるでしょ……!? 誰がアンタなんかに……!」 「うんうん、そう言うと思っていたよ。だからね、こんなものを用意したんだ♪」  松戸は薄い笑みを崩さぬままそう言うと、白衣の胸ポケットから何かを取り出した。  凝視してみるとそれは、薄い桜色をした細長い錠剤だった。  その形に、私は見覚えがあった。 「それは……座薬……?」 「おっ、半分正解。まぁ、用途的には確かにこれは座薬と呼べるものだね」  奴はそう言って目を細めながら、手に持った錠剤を照明に透かした。  透かしても何も分からないだろうに、と呆れていると、奴は私に視線を戻して続けた。 「これはね、最近発明した惚れ薬なんだ」 「ほれ……ぐすり……?」 「まー百聞は一見に如かずって言うしね。説明するよりも、実践しちゃった方が良いよ」 「は? 何を……ちょっ……!?」  松戸は相変わらず感情の読めない表情と声色で言うと、私の体をうつ伏せにした。  かと思うと、私の膝を曲げさせて、尻を後方に突き出すような体勢に変えさせた。  恥部を露わにするような状態に、私は恥辱のあまりに唇を噛みしめ、どこにもやれない怒りを誤魔化すように呻いた。  今すぐに立ち上がり、すぐ傍にいる憎たらしい女を殴り飛ばしたい。  しかし、背中の後ろで手錠によって塞がれた両手はおろか、体そのものが私の言うことを聞かない。  今の私の体を動かせるのは、不幸にも目の前にいるマッドサイエンティストしかいないのだ。 「……殺してやる……」 「おぉ、怖い怖い。正義の警察官がそんな言葉使っちゃっていいんですかぁ?」 「貴様……!」 「まぁいいや。早速始めるね」  松戸はヘラヘラした口調で言うと、私の尻に両手を当てた。  何をするのかと疑問に思った時、奴の両手によって尻肉が開かれ、肛門部が完全に露わになるのが分かった。 「なッ……!?」 「ふふ、ご開帳~」 「貴様……ッ!」 「はい、挿入~」  相変わらずヘラヘラした口調で言いながら、奴は手に持っていた例の錠剤と思しきものを、私の肛門に挿入してきた。  何とも言えない異物感に、私は「ひぐッ……」と小さく呻いた。  そんな私を気にせず、奴は私の肛門から指だけ抜き、尻から手を離した。  手を離されたにも関わらず、肛門には相変わらず不快な異物感が残っていた。  しかし、私の怒りはとうの昔に沸点を越え、今は一周回って何もする気の起きない無気力感しか無かった。  何も言わない私に、奴は離れた所にあった椅子を私の正面に当たる場所まで持ってくると、それに腰かけて私を見た。 「さて、と……それじゃあ、薬が効くまで時間もあるし、さっきの薬についての説明でもしてあげよう」 「……聞きたくない」 「そんなこと言わないでよ。仮にも自分の体に投与されたお薬だよ? 知っておいた方が良いよ」 「……」  誰のせいだと思っている、と憎しみを込めた目で思い切り睨んでやった。  すると、奴は肩を竦めて「おーおー、怖い怖い」と、明らかに心にも思っていなさそうな口振りで言った。  それに、私は奴を睨んだまま、舌打ちをした。  奴はそれを特に気にする素振りを見せず、眼鏡をクイッと上げて続けた。 「まず、君は座薬という薬がどんな風に効くのかって知っているかい?」 「……」 「座薬を挿入する肛門のすぐ上は、直腸に繋がっているんだ。直腸の粘膜下には血管がよく発達していて、座薬の吸収はそこで行われるんだ。……そうだ。図があった方が分かりやすいな」  奴はそう言うと椅子から立ち上がり、部屋の隅にあったホワイトボードを転がして私の前まで持って来る。  それに何も言えずにいると、奴は黒いマーカーペンを取り出し、キュッキュッと耳障りな音を立てながら何かを描き記していく。  やがてそれは、人の大腸から肛門までを表した簡単な図となった。  奴はその内の一番下の端を丸で囲み、線を引いて『肛門』と書いた。 「ここが肛門。……で、直腸っていうのはその少し上ね」  奴はそう説明しながら、肛門と表された部分の少し上の方を丸で囲み、線を引いて直腸と書く。 「さっき説明した通り、直腸の粘膜の下には血管がよく発達しているんだ。その内、座薬の吸収に深い関係を持つのは、直腸静脈叢ってやつ」  そう言いながら、奴は直腸と書かれた管のようなものの横を丸で囲み、線を引いて『直腸静脈叢』と書いた。 「座薬の成分はこの直腸静脈叢に吸収されると、それより上にある中直腸静脈、上直腸静脈っていうのと合流して、全身に巡るんだ」  言いながら、奴は直腸静脈叢の文字の上に『上直腸静脈』『中 〃 』と書き、直腸静脈叢という文字から矢印で二つの文字を指し、そこからさらに上に続く矢印を書いた。 「この直腸静脈叢から伸びる血流は、肝臓の裏を通って全身を巡るんだ。肝臓を通らないってことは、薬の成分が肝臓に吸収されずにきっちり全身を巡るということ。つまり、飲み薬よりも体内での分解が少なく、体内への吸収が早い……つまり、即効性が高いんだよ」  淡々と語り終えた松戸は、改めて椅子に腰掛けた。  奴は頬杖をつき、「それで、だ」と続けた。 「この座薬のメリットを、私は惚れ薬や媚薬に併用出来ないかと考えてね。そこで発明したのが、先程君に挿入した試験薬だ」 「……試験……薬……?」 「つい先日発明したばかりな上に、検体が上手い具合に入手出来なくて、実験が出来なくってね。……あぁ、心配しなくても、その薬で君が死ぬようなことは理論上ではありえないよ。ただ、中には違法ドラッグに使っているような依存性の高い成分もあるから、下手したら廃人にはなるかもしれないが……まぁ、それならそれで面白いから良いか」  相変わらず人を人と思ってもいないような発言に、私はただ言葉を失った。  しかし、長々と奴が座薬の効用性について説明している間に、早速あの薬の効果が少し出始めていることに気付いた。  なぜなら、私のことを人とも思っていないような奴の発言に……先程よりも、恨めしい感情が湧かなくなってきていたからだ。  立て続けに行われる恥辱的な行為に加え、延々と長ったらしいうんちくを聞かされたせいで精神的に疲労していることもあるのかもしれないが、この気持ちの穏やかさはそれだけで片付けられるものではなかった。  穏やか……そうだ、穏やかなんだ。  私は奴の説明を聞いて……奴の声を聴いて、落ち着いているのだ。 「さて……計算上では完全に効果が出るまでまだ時間もあるし、私は少し席を外すことにしようかな」 「……何……?」 「あぁ、心配しなくてもこの部屋には監視カメラが二つ程設置されているから、私が君を観察していなくても研究は出来るよ。それより、君が潜入してきたことによって中断している研究があるのでね。少し失礼するよ」 「あっ、おい……!」  呼び止める私の声も気にせず、松戸は椅子から立ち上がり、さっさと部屋を後にした。  せめて体勢を戻してから行け……!  そう思ったが、誰もいない部屋の中でそんなことを言っても無駄だと判断し、私は溜息をついて前方を見つめた。  奴が一切片付けもせずに出て行ってしまったために、椅子もホワイトボードもそのままになっている。  ホワイトボードに描かれた図は本当に簡素なもので、文字はかなり乱れていて読みにくかった。  とはいえ、人体については素人に近い私でも分かりやすく纏められていて、文字の汚さも愛嬌として捉えられるというか……。  そこまで考えて、私はハッと我に返る。  忌まわしいあの女に愛嬌など、何を考えている……!  このホワイトボードも、私を陥れる為に作った薬の説明に描かれたものだぞ!  私に使われた薬がどのようなものかを、私に教える為の物だ!  ……そう……私の為に……──。  ……って、違うッ! 絆されるなッ!  変な方向に逸れかけた思考を、私は必死に戻す。  すると、心臓が強く脈打っていることに気付いた。  全力で走った後のような、胸の中で太鼓が鳴っているような激しいものではない。  まるで、心の中にある扉を優しくノックしているような、甘美な鼓動。  これはまるで……── 「──違うッ!」  道を踏み外しかねないその言葉を、私は否定の言葉を口に出すことで打ち消す。  あんな、外道で最低で鬼畜でクソみたいな奴に対してそのような感情を持つことなど、あってはならないのだ。  アイツは何人もの人間の人生を踏みにじり、玩具のように壊してきた最低な人間だ。  しかも、そのような実験を繰り返して生み出した薬は、大半がまた別の人間の人生を破滅へと導く違法ドラッグだ。  奴は今すぐ法によって裁かれ、罰を受けなければならない。  その為にも、ここで私が屈するわけにはいかない。  このまま前方を見ているだけでも余計なことを考えてしまうだけだと判断し、私は咄嗟に視線を横に逸らした。  するとそこには、白い簡素なテーブルが一つあり、その上にノートパソコンが一台置いてあった。  開いたままで放置されている為にスリープ状態になっているみたいで、画面は真っ黒だった。  そして、棚の横には、会社や学校に置いてあるような巨大なコピー機が一台置いてあった。  周りには資料と思しき大量の書類が散乱しており、中には踏まれたりしてグシャグシャになったものもあった。  どうやら、奴はかなり大雑把で適当な性格をしているらしい。  だが、それもまた子供らしいというか、一つの愛嬌として受け入れられ……──ッ! 「クソッ……!」  吐き捨てるように呟いた私は、すぐに思考した。  この部屋どころか、この研究所にあるものは全て奴の所有物だ。  研究所内で目に映る物は、全て奴のことを想起してしまうだろう。  その度にこのように心を乱されていては、あっという間に奴の手中にはまってしまう。  悔しいが、奴の頭脳だけは本物だ。  きっと、それすらも全て計算に入れた上で、奴はこの部屋に私一人を放置したのだろう。  でも、そんな賢いところも……──。  そこまで考えて、私は慌てて首を振って思考を振り払う。  とにかく、このままではダメだ。  考える間も無く、私は咄嗟に目を瞑った。  視界に入ってくる奴の情報を少しでも遮断すべく、私は咄嗟に目を瞑った。  目を瞑ると、奴の顔が明瞭に浮かんだ。  無機質な目で私を見下ろす顔。  実験動物を見るような目でこちらを見ている顔。  苦しんでいる私を見て冷たい笑みを浮かべる顔。  私を馬鹿にするように笑う顔。  得意げに自分の研究について語る顔。  まるで子供のように純粋な目で自分の作った薬について語る顔。  人形のように整っていて、作り物のような無機質さを持つ顔。  笑うと頬にえくぼが出来る顔。  思い出せば思い出す程、心臓の高鳴りが早くなっていく。  あぁ、ダメだ……。もう、抑えられない……。  薬で作られた偽りの感情だと分かっていても、もう止められない。  私は松戸アヤノのことが……好きだ……。  一度自覚してしまうと、もう感情は止められない。  堰を切ったように、激流のように一気に襲い掛かってくる。  好き……好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好きッ!  頭の中に彼女と出会ってからの記憶が蘇っては、そのどれもが彼女と一緒にいた甘い時間に変わっていく。  堪らず目を見開くと、ほとんどの物が真っ白な室内に、薄く桃色の靄が掛かっているような感覚がした。  一瞬霧が掛かっているのかと思ったが、少しして、私の視界が変わっているのだと気付く。  前方にあるホワイトボードを見つめると、松戸さんが私に薬について説明してくれた時に描いた図が目に入った。  要点だけを伝えることを目的として描かれたであろうそれは、かなりシンプルなものだったが、それも何だか彼女らしく思えて頬が綻んだ。  文字は少し汚いけど読めるし、これもまた一つの愛嬌のようなものだ。  視線を逸らすと、ノートパソコンが置かれたテーブルや、床に散乱した資料が目に入る。  デザインよりも機能性を重視したようなシンプルな部屋の構造は、ホワイトボードと同様で彼女らしい。  床に散乱した資料は、必要な時に取ってはその辺に捨てていたんだろうな。  片付けを面倒くさがるなんて、子供みたいで可愛いな。  この部屋あるものは、全て松戸さんの生活の痕跡を感じさせるようなものばかりで、見ているだけで胸が高鳴る。  ただ、体を動かすことが出来ない為、全てを把握することは出来ない。  しかし、この状態も松戸さんが生み出したものと思えば、むしろ愛おしく感じる。  それにしても、戻ってくるの遅いなぁ。  時計が無いので、彼女がいなくなってからどれくらい経ったのかは分からない。  でも、もうかなり長い時間が経ったように感じる。  早く帰って来てほしい。そうしたら、彼女と出会ってからの無礼の全てを詫びるのに。  それに、今なら彼女の望むままに、彼女の為に働く駒になるというのに。  彼女の為なら、警察組織など迷わず裏切るし、例え世界の全てを裏切るようなことでも喜んで実行するというのに。  それで彼女が笑ってくれるなら、それだけで私は幸せになれる。  だから、早く戻って来てほしい。  今すぐに彼女の顔を見て、声を聴きたい。  確かに、瞼を瞑れば彼女の顔はハッキリと思い出せるし、声だって明瞭に思い出せる。  でも、それでは満足できない。できるはずがない。  記憶は所詮記憶でしか無くて、やっぱり本物には敵わない。  視界に松戸さんの姿がハッキリと映り、彼女の声が私の耳を震わせるあの感覚。  それを思い出すだけで、私の胸は得も言えぬ心地良さで満たされる。 「ま、松戸さん……!」  耐えきれず、私は声を上げた。  彼女は、監視カメラで私を観察していると言っていた。  それならば、今も研究所内のどこかで、この映像を見ているはずだ。  私は顔を上げ、どこにあるか分からない監視カメラに向かって、必死に話しかける。 「松戸さん、私……貴方のことが好きです……! あんなに失礼な態度を取っておいて、調子の良いことをと思うかもしれませんが……貴方のことが、好きで好きで堪らないんです……! だから、この部屋に戻ってきてくれませんか? 会って、私の全ての無礼について、謝りたいんです……! だから、どうか戻って来て下さい!」  当たり前だが、私の言葉に応えてくれる人はいない。  それに、私は唇を噛みしめ、俯いた。  もしかしたら、彼女はもう二度と、私の前には現れないのではないか?  突然湧き上がった可能性に、ドクンッと心臓が強く脈打った。  よく考えれば、当たり前なのかもしれない。  私は彼女に対して、それに相応しいくらい失礼なことを言った。  彼女が私に使ったという筋弛緩剤とやらの効果が、どれくらい続くのかは分からない。  時間の経過によって効果が切れるものならば、動けるようになればすぐにでも彼女を探しに行く。  手錠を掛けられてはいるが、警察学校で培った運動神経があれば、きっと可能だ。  だが、もしも効果が切れなかったら?  一切体を動かせないまま、この部屋で一生を終えるのか?  嫌だ……そんなの嫌だ!  私が死ぬことは構わない。それに相応しいことをしたのだから。  でも、松戸さんに会えないまま……失礼に対して謝れないままなのは嫌だッ! 「ごめんなざいッ! 松戸ざんッ! ごめんなざい゛ッ!」  気付けば、私の双眼からは大粒の涙がボロボロと零れ出ていた。  しかし、私にはそれを気にする余裕も無く、涙を流しながら謝ることしか出来なかった。 「も゛うあ゛んな゛失礼な゛態度取り゛まぜん゛ッ! も゛う゛二度と貴方にざがらっだりじまぜん゛ッ! わ゛だじはも゛う貴方の物でずッ! 貴方の為だけに生ぎまずッ! 死ねと言わ゛れ゛ればよろごんでじにまずッ! だがらどうか……どうかッ……ずでない゛でぐだざい゛ッ……!」  涙声になって、呂律が回らない中でも、私は何とかそう言い切った。  そんな私の声に、やはり誰も答えてくれない。  嫌だ……捨てられたくない……嫌われたくない……。  嫌われても仕方のないことしかしていないけど……だからこそ、これから償っていきたいのに……。  嫌うならいっそ、せめてあの人の手で殺して欲しい。  どんな殺し方でも受け入れるから、せめて私の前に姿を現して、その手でこの命を消し去って欲しい。  一目で良いから、あの人に会いたい。声を聴きたい。  それだけなのに……。  ガチャッ。  その時、どこからか……扉が開くような音がした。  私はそれに、ハッと目を見開き、顔を上げた。 「いやぁ、ごめんねぇ。思っていたよりも研究に時間を取られていてね。さっきやっと終わって……」 「まづどざん゛ッ!」  部屋に入ってきた松戸さんを前に、私は咄嗟に名前を呼んだ。  すると、彼女は驚いた顔で私を見て、「これはこれは……」と小さく呟いた。  彼女が目の前に現れただけで、一気に世界が輝いたような感覚がした。  心臓が激しく高鳴って、頬が勝手に緩み、喜びのあまりに涙が零れる。  恐らくだが、今の私はかなり醜い顔をしていることだろう。  そんな私を見て、松戸さんは目を丸くしながらこちらに歩いてきた。 「どうしたんだい? そんな顔しちゃって……綺麗な顔が台無しだよ?」 「ッ……」  綺麗と褒められ、私は息を呑んだ。  それだけで、今まで感じていた悲しみなど全て吹っ飛び、喜びが私の胸の中を満たしていく。  何も言えずにいる私に対し、松戸さんは顎に手を当てながらしばらく観察していたが、やがてフッと小さく笑みを浮かべた。 「どうしたの? 私に言いたいことがあるんじゃないの?」 「松戸さッ……私、貴方のことが──ッ!」  すぐにでも私の気持ちを伝えようとしたが、そんな私の口は、彼女の人差し指に対して塞がれる。  初めて触れられた……!  それだけで、幸せ過ぎて天にも昇りそうな気持ちになった。  松戸さんはそんな私を見て優しく微笑むと、懐から注射器を取り出した。 「そういうことは、ちゃんとした格好で言おうね」  彼女はそう言うと私の首筋を湿ったガーゼで拭き、注射器を差した。  チクリとした痛みが一瞬走ったが、それが彼女から与えられたものというだけで、それは私を極上の幸福へと導いた。  注射器から何かの液体が注入されると、すぐに体に異変が起きた。  まるで体に熱が灯ったような感覚がしたかと思えば、すぐに指先が動かせることに気付く。  それに驚いていると、すぐに両手が自由になるのを感じた。 「ホラ、こういうことを伝えるなら、ちゃんとした姿勢でね」 「ッ……! はい!」  松戸さんの言葉に従い、私はすぐに体を起こし、彼女に向き直る形で正座をした。  改めて真正面から彼女を見ると、もう何から何までが輝いて見えた。  幸福感のあまりにクラクラするが、私はすぐに気を取り直し、口を開いた。 「松戸さん、私……貴方のことが、好きです……!」 「……うん」 「だから、私……私は……その……」  彼女に伝えたいことが山ほどあるのに、いざ伝えようとすると、上手く言葉にならない。  失礼な態度への謝罪。彼女への忠誠。捨てないで欲しいという懇願。その他諸々。  伝えたいことが多すぎて、何から言えば良いのか分からず、私は口ごもってしまう。  すると、そんな私を見て、松戸さんはクスクスと楽しそうに笑った。  その笑顔を見ただけで、私の思考は全て吹っ飛び、幸福感で頭の中が埋め尽くされた。 「……好きです……」  その言葉だけが、私の口から零れた。  すると、彼女はまたもや楽しそうに笑って、口を開いた。 「さっきも聞いたよ」  笑いながら言う松戸さんに、私は感極まってしまい、気付けば涙を零していた。  何も言えずにただ泣きじゃくることしか出来ない私に、松戸さんは「あーあー」と言った。  かと思うと私の肩を掴んで引き寄せ……抱きしめた。 「っ……」 「よしよし、落ち着いて」  優しい声でそう言いながら、私の背中をポンポンと軽く叩く。  それに、私はボロボロと涙を流しながらも、彼女の体を抱きしめ返した。 「ま、松戸、ざん゛……」 「ん~?」 「ずぎ……グスッ……好きでず……好きで……好きで……堪ら゛ない゛ん゛でず……」 「うん……そっか……」 「だがら゛……いなぐなら゛な゛いで、ぐだざぃ……捨てな゛い゛で、下さい゛……」 「捨てないよ」  耳元で囁かれたその言葉に、私は目を見開いた。  すると、松戸さんは私の頭にポンッと軽く手を置き、優しく撫でた。 「私の命令に従ってくれれば……ね」 「ッ……! 従います……! どんな命令でも従います!」 「フフッ、良い子だね」  松戸さんは小さく笑いながらそう言うと、私の体を離した。  何だろうと思っていると、彼女は私の頬に手を添え、頬を濡らしていた涙をグイッと拭った。  そのまま彼女は顔を近付け……──「んッ」──……唇を奪った。  突然のことに、私は目を見開き、硬直した。 「松戸……さん……?」 「アヤノ様、で良いよ」 「ッ……はい……♡ アヤノ様……♡」  名前で呼ぶ許可が与えられ、私は恍惚としながらも、早速名前で呼んだ。  すると、松戸さ……アヤノ様は、満足そうに頷くと私の頭を撫でた。  かと思えば、またもや唇を奪われる。  しかも今度は、舌を入れられた。  舌を絡め取られ、激しく口内を貪られる。  激しくて濃厚な接吻は私の思考すらも絡め取り、頭の中を真っ白にしていく。  まるでアヤノ様が私の体を求めてくれているように感じて、それが凄く嬉しくて、一生懸命それに応えたかった。  しかし、体は全く言うことを聞かなくて、アヤノ様の舌技に成すがままになることしか出来なかった。 「ぷはぁっ……」  結局何も出来ないまま、口が離された。  ツー……と、私達を繋ぐように、唾液で出来た銀色の橋が架かる。  顔が離れていくに従って、その橋はぷつんと途切れる。  それに、私は口を半開きにしたまま、呼吸を荒くしながらアヤノ様を見つめ返すことしか出来なかった。  すると、彼女は私の口に親指を入れた。 「んぁ……♡」 「……体温、脈拍、呼吸……目立った異常は無し、か……」  アヤノ様はそう呟くと、私の口から手を離し、その手を下に持っていった。  何をするのかと思っていると、彼女は私の股間部に手を当て、クチュリと音を立てさせた。 「あっ……♡」 「性感にも異常は無し。愛液にも……異常は無さそうだね」  そう言って、アヤノ様は手を離し、顔の前まで持っていく。  なんとなく視線を向けてみると、そこには細長い紙が一枚、彼女の指に貼ってあった。  良く見るとそれはピンク色っぽい紙だが、薄く青い染みができている。 「……それは、何ですか……?」 「ん? あぁ、これはリトマス紙だよ。人の愛液はアルカリ性だからね。ちゃんとリトマス紙が反応するか確認したんだよ」 「そうなんですか……♡」 「まぁ、君が深く知る必要は無いよ」  そう言って、アヤノ様は私の頭をワシャワシャと撫でた。  まるでペットを愛でるような手つきが心地良く、私は目を細めた。  すると、彼女は私の手を引き、小さく笑みを浮かべて続けた。 「……じゃあ、まだまだ君に投与した薬の効果を確認したいから、別室に移動しようね。アカリ」  優しい笑顔から突然名前を呼ばれ、ドクンッ! と心臓が激しく脈打った。  すっかり蕩けた頭は、彼女の言葉によってさらにドロドロに溶けていく。  私はコクリと頷き、「はいっ♡」と頷いた。


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