アイネ・クライネ・ナハトムジーク
Added 2020-07-05 15:02:53 +0000 UTC「奴隷だと…?」 眉間に皺を寄せ、セバスを睨みつける。しかしこの老骨はどこ吹く風と言った様子だ。 「左様。若様も由緒あるファート伯爵家の御当主になられたのですから」 セバスは背筋をピンと張ったまま、渋い顔でそう告げる。 かくいう俺の方もひどく苦々しい表情をしていることだろう。 「いらんいらん、大体何なんだアノ『貴族たるもの奴隷の一人くらい持っているのが当然』みたいな風潮。虫酸が走る」 「しかし、箔をつけるためにもですな…」 何度断ってもセバスは食い下がる。俺には全く理解できぬ因習だが、まだ根強いのも事実だった。 「せめて一度、奴隷商に顔をだすだけでも…。爺めの顔を立てると思ってですな……」 俺なんかよりずっと年上で、もう40年この家に仕えているセバスにそう言われては、無下に出来なかった。忌々しい。 「……ッチ、一度だけだ。今夜出向く、用意せよ」 「おお…!…畏まりました」 顔を綻ばせるセバスだが、俺にとっては些末な雑事に時間を取られることへの不満しかなかった。 領主でもあった父が若くして没し、15で家督を継いだ。 ただの荒れ地だった土地を拓き、芋を種付けし試行錯誤をすること5年。 ようやく、俺の領地も安定した食料の供給が可能になった。父ですらなし得なかった事だ。 しかし、俺はまだ止まるつもりはない。いずれはファート領を国一番の食糧庫にしたいとすら思っている。 「だから、因習だの箔だのにかまける時間はないのだと」 夜半、馬車で王都まで向かう。片道5日、とてもじゃないが長すぎる。 「ですが、これも必要な事にございます」 「そうは思えんがな……」 民はいる。労働力なら彼らで十分だ。もっと広大な地となれば、それこそ奴隷の一人や二人では到底賄えない。 「見るだけだぞ」 「はは、承知しております」 この老獪なセバスが何も企んでいないとも思えんが、まあイイ。 「それよりセバス、北との会合はどうだ?」 「は、そちらも無事話が付きそうでございます」 「そうか、何よりだ。あ奴らなら荒れ地でも栽培できる種を持っているだろうしな。買い取って調べぬことには始まらん」 種を掛け合わせ、種を調べ大量に生産できるか試す。やるべき事は山積している。 「若も精がでますな…。若い頃のお父上によく似て」 「やめろ、父の道程で止まるつもりなど俺にはない」 なにも栄達を求むるわけでも、家を大きくしたいわけでもない。ただ、どこまで俺の力量が届くか知りたいのだ。 だからこそ、金だけで人を従える奴隷制度など、つくづく忌々しい。 そう、俺は思っていた。 「こちらでございます」 王都からほど近い街の外れに、セバスの用意した馬車へ乗り込んだ。暗幕の張られた窓は、奴隷商の場所を隠す術だろう。 一刻ほど、道の悪いなか馬車に揺られ、ようやく止まった。 馬車の戸が開けられる。大きな屋敷と身なりのいい、しかし真っ当な人間には見えない風貌の男が立っていた。 「旦那がファート伯で?」 「それ以外のなんだと?」 ギラついた瞳は、値踏みをするような雰囲気しかない。もっとも俺の歳ならば仕方ないが。 「一応、証明してもらわねえと。こちらも商売なんで」 「……ッチ」 しぶしぶ、懐から伯爵章を取り出す。白銀の柏葉に二本の交差する剣の意匠。小さいがコレひとつで普通の家なら数年暮らせる金になるだろう。 「おお…確かに。こりゃ失礼しました」 「いい、案内しろ」 「へえ、ただいま」 言うや否や、男は数歩進んで目の前の建物の鍵を開けた。 中は薄暗い。快適な住環境など無視したように鉄格子がずらりと並んでる。 「旦那はどんなのがお好みで?力のある男、床上手な女、ちょいと変わった人間になかなかそこいらじゃ見られねえ小人。うちは選り取り緑ですぜ」 無数に並ぶ牢獄のような鉄格子の前を歩きながら、いけしゃあしゃあとそういうこの男をよほど殴りたくなったが、今更である。 「聡明で理知的な、分別のある人間がいいな」 「はっはっは、そいつはちょっと難しい話で」 何が面白いのか大声をあげる男。牢の中で驚いた奴隷の小さな声がした。 思わず目を向ける。 「ま、上物は上の階で……旦那?どうかしやしたか?」 「ああ、いや。アレは?」 俺が指さしたのは、並んでいる格子の一つ。その奥。寝台すらないその牢に、銀河が広がってた。それが人の髪と気付くのに、少し時間がかかった。 「ああ……アレはですね……」 急に歯切れの悪くなる男。明かりが薄いせいで体の輪郭はわかりずらいが、子供だろうか。 「なんだ、言え」 少々言葉に怒気をのせる。すると男は参ったような顔をした。 「ありゃあ、ダークエルフってやつでさぁ。森ではぐれてるのを捕まえたんですが……」 「エルフというとアレか、森に住むとか言う」 国の西武に広がる広大な森林にはエルフが住み、遥か古より細々と交流を続けてきたと聞き及んでいる。もっとも俺の領土は東の外れ、真逆だ。 「エルフなんぞを奴隷にしたら、首が飛ぶどころではないだろう」 「へえ、それはもう…。ですがアレはダークの方で。似ちゃいますが別もんらしいんで」 「なるほど…で、それがなぜ?」 「さぁ…?力もないし、エルフと違って肌も黒くてガキだからつって、好事家しか買わねえんで困ってるんでさぁ」 困ったように禿げた頭をかく男。どうやら、売り物としての価値は低いということか。 「……エルフと言うのは、ずいぶん賢いらしいな?」 「へぇ、らしいですね」 「…………あれ、いくらだ?」 「へえ!?買うんで?あれを!?」 「なんだ、厄介払いができるではないか」 そう返すと男は気まずそうに肩をすくめる。 「いえその、お偉方に買ってもらう代物じゃねえんで……いいんですかい?ホントに?」 「構わん、いくらだ?」 「へぇ…っと…金貨10で」 手元の紙束を眺めそう言う男。安くて金貨10とはバカバカしい。庶民が3年は暮らせる額だ。 「高い、金貨5だ」 「それはいくらなんでも……!せめて8で…!」 「厄介払いできるのだろう?金貨6だ」 「………せめて、銀貨30上乗せしてもらわねえと」 「……良いだろう。金貨6と銀貨30だ」 これ以上は交渉しても意味がなさそうだ。男は仕切りに「ありがとうございます…!」と頭を下げ、牢の錠を開けた。 「おらっ!買い手がついたぞ!」 途端に声を荒げる男。辟易する。二度と来たくない。 ダークエルフの少女はこちらを見ると身を縮こませた。無理もない。たった今自分を買った相手だ。怖いだろうよ。 「……来い、お前はもう大丈夫だ」 手を差し伸べる。男が驚いた様子で俺を見るが構わない。少女が、しばし固まって、そしておずおずと俺が伸ばした手の先端に触れる。 「ああ、大丈夫」 「……っ」 何かを発したかに聞こえたが、何という言葉かはわからなかった。 少女の手を握り、そのまま抱き上げる。驚き、硬直した体は酷く軽い。 「さっさと帰るぞ」 誰にでもなく、俺はそう呟いて奴隷商の屋敷を後にした。 銀髪の少女は、ダークエルフの名に恥じぬ浅黒い肌色をしていた。だから暗がりでは気づかなかったが酷く汚れている。それにすえたような臭いがする。 「セバス!湯を沸かせ!」 常宿に帰るなり、俺は言い放った。本邸よりはずいぶん狭いが、伯爵が使う屋敷だ。風呂ぐらい沸く。 「おお、若様。お帰りで…!それは……!」 「奴隷だ。買ってきた。まずは風呂にいれろ。その間俺は腹拵えだ。用意しろ」 「はっ…。ですが…」 「話は後だ。二度は言わん」 そしてセバスの返事も待たず今度はメイドの方へ声をかける。 「イヴ、こいつを風呂に入れてやれ。それと服を見繕ってこい」 「はい、かしこまりました」 イヴは一度深く礼をすると少女の手を取ろうとする。しかし、少女は俺から離れようとしない。 「……大丈夫だ。安心しろ」 「…………」 しばらく俺とイヴの間に視線をさ迷わせ、ゆっくりと手を離す。イヴが微笑んで少女の手をとった。 二人は浴場へと歩いていく。その背中をセバスが何やら言いたげな顔で見送る。 「それでは、話をしようか」 「……は、ご随意に…」 セバスは諦めたように、大きく息をはいた。 「しかし、胸クソ悪い場所だった。二度といかんぞ」 軽い食事を終え、一息ついて吐き捨てる。 「して…なぜあのような…?」 「ああ、それか。セバスもエルフ…まあアレはダークエルフだが、が長命なのは知っているな?」 「ええ、存じております」 エルフと我が国はか細いながらも交流がある。だから、彼らの長命も賢者ぶりも周知であった。 「それだ。頭の回る長命な生き物だ。労力に打ってつけだろう」 「ですが……」 「セバス。考えても見ろ」 俺は殊に身振りを交え、力説を始める。父の方針を曲げたときも、こんなことをしたな…。 「お前とて不老じゃない。それに、俺に倅でもできたとき、生き字引がいるに越したことはないだろう。おまけにアレなら、その数世代後まで管理を任せられる。面倒事をな」 「それは…おっしゃる通りですが……」 「しかも奴隷だ。今から殊更親切に育ててやれば、そうそう反旗を翻すこともあるまいて。人間でないから、爵位などの野心もないだろうしな。俺とお前の知恵を全て詰め込んだ長期稼働する生きたマニュアルだぞ?それが金貨6枚だ、安すぎる」 「…………どうあっても、お考えを変えるつもりはございませんか」 諦めたようにセバスが首を振る。 「ああ。なに、時期が来ればわかるさ。俺の買い物が無駄であったことなどないだろう?」 「……左様でございますな…。承知致しました。でしたら、爺は何も申しません」 「ああ、助かるよ」 セバスに俺の考えを説き終わった頃、イヴが少女をつれて部屋へ入ってきた。 「若様、お待たせ致しました」 「ん。で、どうだった?」 「……怯えていたようです」 「……ま、無理もないわな。…こちらへ来い」 手招きをすると、少女は少し戸惑ったようにイヴと俺を見比べ、やがておずおずと俺の目の前までやってくる。 間近で見ると、浅黒い肌も艶があってなかなか美しい。目鼻立ちも良いし、長い銀髪も見事だ。しかし、服の裾からの覗く手足はひどく細い。枝のようだ。 「体は?ずいぶん軽かったが」 「体…でございますか?確かに、栄養失調の子供のようでしたが……」 「そうか。……お前、腹は減ってるか?」 俺が尋ねると、少女は小さく頷いた。 「そうか。よし、そこに座れ。セバス、今すぐ子供でも食えるものを用意しろ、量は……とりあえず一人前だ」 「はっ、直ちに」 「それと、あれば甘味だ。よろしく頼む」 「畏まりました」 セバスは一度頭を下げ、厨房へと引っ込む。イヴは、少し驚いたように目を向けてくる。こいつにも後で言い聞かせるか。 「とりあえず名前だな……一応聞くが名はあるか?」 「………」 今度は首を振る。 ま、奴隷になったような奴は、得てしてそういうモンだ。 「ふむ……よし、クライネだ。どこかの言葉で小さいとかいう意味だが、まあ何でもいいだろう。わかったか、クライネ」 「……!……っ!」 名付けられたのが嬉しいのか、何度も首を縦に振る。 「それでお前、喋れるのか?」 「……」 頷きもしないが、否定もしない。さて、どうしたものか。 「ああ、喋ると叩かれていたのかもな。奴隷商などそういう輩ばかりだろう。大丈夫だ、喋ったからとて、何もしないさ。…さぁ、話すんだ、クライネ」 「…………うん」 小さくか細い声だった。けれど、確かに俺の耳にクライネの声が届いた。思わず、頬が緩む。 「俺はアイン。これから、よろしく頼むぞ。クライネ」 「……うん…アイン様。おねが…します…」 確かにそう言って、クライネが笑った。 なんだ、可愛い奴ではないか。 俺は、クライネの銀髪を軽く撫でた。一瞬身を硬直させたクライネだが、徐々に心地よさそうに目を細めるのだった。 「クライネ、これ読めるか」 クライネを買って半年、季節は冬へと差し掛かっていた。この時期が一番、民も作物も応える。 俺は、手元の本を一冊クライネに渡す。文字すら読めなかった彼女だが、今は難しい顔をして目線を動かしている。 「よめ、ます…。でも、難しい…です」 それはそうだ。そも、子供が理解できるようになど書かれてはいない。俺だって、理解には時間がかかった。 「そうか、読めるか。流石だな…」 「へへ、ありがとう…ございます。…それと、セバス様がお呼び、です」 「……用件は?」 「わかりませんが……婚姻がと、仰られてました…アイン様、ご結婚を?」 「するか、面倒だ。……行かないとお前が叱られるんだよな…」 俺のぼやきにクライネは律儀に頷いた。セバスめ、俺よりよっぽど上手くクライネを使いおって。 「しょうがない……連れてけ」 「畏まり、ました…」 クライネは静静と礼をすると扉を開け、俺をセバスのもとへ案内する。 ピンと伸びた背筋に1つに結わえた銀髪。落ち着いた仕草と丁寧な言葉遣いは、数ヶ月前まで奴隷だったとは思えんだろう。セバスやイヴなどの教育の賜物である。 小枝のように細かった体も、この半年で十分少女らしい体つきになった。 まだ少し危なっかしい所はあるが、どこかに奉公にだしても問題ないほどだ。絶対にやらんが。 「いっそ、クライネを娶るか…………」 「……っ!あ、アイン様……!あの…私……!」 「ん、ああ聞こえたか。すまん、一人言だ」 いかんな。セバスやイヴらと違って妙に心を許してしまう。 「セ、セバス様。若様をお連れ致しました…」 「わかりました。通しなさい」 セバスの声が部屋から聞こえる。応接室にも使われる部屋だが、この辺鄙な館を尋ねる人間もおらず、こういった話をすることもある。 ドアを開け、立ったままのセバスを横目にソファに座る。 「まあ座れ。してセバス。なんだ、用とは。クライネまで使って」 「おや、クライネから聞いておりませんかな?」 「……ッチ。何度も言うが俺は婚姻する気など毛頭ないぞ」 「そうは申しますが、ファート家は若様お一人なのですから、早々にお世継ぎを……」 「くどい。あまりにくどいせいで、クライネを娶るとまで考えたわ」 自棄気味にセバスにそう返すと、一層渋い顔をする。 「……ご冗談を……」 「何故だ、よいではないか。将来有望な美人だぞアレは。まだ幼いが…まあそういう例もあるだろうよ。それにクライネの有能ぶりはお前も知る所だろう?」 「それは……左様でございますが、しかしながらそれとこれとは…」 弱りきったセバスを見るのは実に良い。半ば以上に冗談だったが、しばらくこの線で通すのも良さそうだ。 「とにかく、それしか話がないのなら俺は書庫に戻る」 「では、せめて婚姻を希望しておられる息女方の一覧だけでも……」 「くどい、そんなに見せたければクライネに持ってこさせろ」 「若様…以前より思っていましたが、クライネに甘すぎますぞ」 「構わんだろう。アレは今後数十年…いや百年二百年とこの家とこの地にいるんだ。今のうちに甘やかして損はない」 「むぅ……わかりました。後でクライネに茶と一緒に持っていかせますので、必ずお目通しお願いいたしますぞ」 「わかったわかった。ああ、茶菓子を忘れるな」 それだけ言って俺は書庫に戻る。暖炉のない廊下はやや寒いから少し足早に。 しかしな…婚姻か。いらん思惑ばかり絡んでそうな貴族同士の婚姻など微塵も望まんが、確かに世継ぎは重大な問題ではある。 ま、そのへんはおいおい考えるか。俺もまだ若い。爺様が親父を授かったのは43と言っていたし、種の方は多少年を食ってても問題ないだろう。 「いっそ本当にクライネあたりを娶るか……。なかなか悪くないと思うんだがな」 セバスも、他の従者達も流石にいい顔はしないだろう。 書庫に戻り、部屋に備え付けた椅子に座る。目の前の机には先ほど広げていた書のほか、今年のファート領の収穫量と栽培品種の資料。 「やはり冬は厳しいか…。北からかった種が果たしてどこまで上手く育つかわからんしな。いっそ土壌を丸ごと調整して……」 雪に埋まるほど寒冷地ではないが、それでも冬場に収穫できる作物はそう多くない。北の種と交配させるにも、結果が出るのはいつのことか。 何より、民草達は食い扶持を稼ぐ必要があるからおいそれとこんな実験紛いなことは出来まい。そうなると、俺以外に考える頭はそう多くない。セバスと二人で顔を付き合わせるにも限界がある。 「アイン様……お茶をお持ち致しました……」 ドアがノックされ、クライネの細い声が聞こえる。 「ああ、入れ」 机の上を軽く整理しながら返事をする。クライネが、少し危ない手つきながらもドアを開け、ティーポットとクッキーを持ってきた。 「失礼します…。それと、これ、セバス様から…」 俺に紙束を渡し、そしてティーポットからカップに紅茶を注ぐ。やや不慣れながらも、随分板について来たと思うのは、身内びいきだろうか。 湯気の立つカップに口をつけ、一口紅茶を啜る。…悪くない。 「まあ、座れ」 そう声をかけると、椅子をもう一脚出して戸惑うクライネを座らせる。セバスからの紙束は目を通すことも無く適当な場所に置いた。 「クライネ、どうだここの生活は。慣れたか?」 「…?はい、とても…幸せです。毎日、お布団で眠れて、美味しいお食事がいただけて…」 少し不思議そうな顔をしながらも、クライネは数えるように指を折りながら、一つ一つなにが幸せかを挙げていく。 「それは、何よりだ。ああ、そこの菓子は食っていいぞ。俺は食わんからな」 「……ですが、セバス様に叱られてしまいます」 ま、そうだわな。メイド扱いしてはいるがクライネは奴隷だし、主人のものを食うのを、あの堅物が善しとするわけない。 「なあに、俺が良いと言ったと伝えればいいさ。それに、セバスと俺、どちらが偉い?」 「それは…アイン様です…」 「よし、じゃあいいだろう?」 「……そこまで仰るのでしたら…」 と、クライネが折れ、クッキーを一枚口に入れる。途端に頬がほころび、俺の視線を感じて真面目な表情を作る。 「俺しかいないんだ、好きにくつろげばいい」 「…んく。ですが…」 何か言いたそうなクライネの口に、もう一枚クッキーを突っ込む。 「んむ…!」 驚いたような表情のまま、サクサクと咀嚼していく様は小動物のようで愛らしい。 あの日、奴隷商から連れ帰った、痩せ細って怯えた目をしたクライネはもういない。けれども、あの姿を不憫に思ったのか、どうにもこいつには甘くなってしまう。 「美味いか?」 「んく…はい。とっても…」 「そうか、なによりだ」 頬を緩め、笑みを浮かべる彼女の顔つきは、半年前に比べると幾分も柔らかくなった。もちろん雰囲気もあるが、栄養状態が改善した証拠でもある。 腕も足も、もう立派な少女のそれだ。折れそうだった頃の面影は薄い。 ただ何となく、あの姿が思い浮かび、ついついこうやって食べ物を与えてしまう。セバスが甘いと言うのもまあ、反論の余地はない。 「クライネ、俺はな…3つの時にこの家に来た。父の妻が死に、俺の母が父の妻になった。ただの妾だったのに大出世だ。……それからの生活に不自由はなかったよ。今のクライネみたいにな」 「……アイン様?」 急な昔語りに、益々不思議そうな表情を浮かべるクライネ。だがこうやって、時々初心を思い出す必要があると、俺は思っていた。 「けれど、俺の幼い頃の記憶は…飢えと苦しみに満ちていた。丁度、この辺りは飢饉でな。食うのも困るときに現れた父は、まるで救いの神のようだった…。今でも時折、あの頃の夢を見るよ。食う物もなく、ただ空腹を紛らわすようにジッと座っていた頃の夢を…」 寒い冬の日に、父が来るまで、いつ死ぬのだろうかと幼いながらも思っていた。俺の根底にはきっと、拭いきれないあの頃の恐怖がある。 「俺はな、クライネ。そういう奴を、少なくとも俺の手の届く範囲から無くしたいんだ。……お前のように、飢え痩せた少女など、特にな」 「アイン様……お優しい、ですね」 「はっ、優しさなどではない。ただのエゴだよ……さて、あまりここに居ると後でお前がセバスに叱られるからな。もう行っていいぞ」 そう告げると、クライネはにっこり笑い、空になったティーカップとクッキーの皿を手に書庫から去っていった。 さて、俺はもう少しここで資料を漁ろう。時間は有限で、すべきことは山積しているのだから。 体の内側が少し暖かいのはきっと、紅茶のせいだけではないだろう。