【手記】メディアの「枠」が取りこぼすもの
Added 2020-03-01 12:22:53 +0000 UTC(ここだけの秘密のお話です。外に口外しないでね)
新聞記事の取材を受けた。
記者さんは、わりと一生懸命真摯な態度で話を聞いてくれたと思う。
でも、取材を受けながら、それほど記事の内容には期待できないだろうなと感じていた。実際その通りになった。
「まあ、新聞だしそうなるよね」という感想だった。
新聞だから「こういう情報を載せなければならない」という、慣習なのか規則なのか、そういうのがある。分かりやすい例を一つ上げる。
質問項目で真っ先に聞かれたのが、本名・出身地・生年月日だ。新聞というメディアの特性上、取材対象の身元を明確に載せなければならないからだろう。過去に数回新聞の取材を受けたが、必ずそこが一番最初に明確に聞かれることだった。
しかし、本名や出身地・年齢が、記事で取り上げたい話題の面白さや本質にどのように関わってくるのだろうか。載せなければならないから載せる。ただそれだけのために、数少ない文字量の多くをそこに費やすことになる。
また、先方より「『ヤクのあしあと』にもの凄く興味があり、取り上げたいと思って」というご連絡だった。
だけれど、記者さんは雑誌を手にとってすらいなかった。
当然といえば当然だ。彼は何も悪くない。失礼ですらない。
彼は毎日、新聞という決められたフォーマットを埋めるために記事を書いている。
つまり、枠を埋めるために記事を量産しなければならない立場だ。
記事ひとつひとつを書くために取材対象の商品を買ったり、読み込んだり、つまり時間やお金、情熱を注いでいては、そんな量産などできるはずもない。
これは「枠」がもたらす必然だ。
もちろん、「枠」は新聞だけのものではない。雑誌の例をあげる。
雑誌の多くはページ数がある程度決まっている。ページ数を埋めるための記事、というのがどうしても発生する。取り上げたい記事の集合体が雑誌なのではなく、雑誌という「枠」を埋めなければならないという宿命がある。
『ヤクのあしあと』は広告・スポンサーをつけないと固く決めている。
広告・スポンサーが居ると、書けなくなることがある。彼らに迷惑をかけるような内容は載せられない。これも「枠」が可能性を狭める典型例だ。
だからメディアが悪いのではなく、彼らには彼らの「枠」なりの役目がある。「枠」の中での生存戦略には必然性がある。
週刊誌がしょうもない記事を流し、テレビのワイドショーがしょうもない話題を振りまくのにも、「枠」の中では必然性や合理性がある。
「枠」の制約が取りこぼすものは多い。
もちろん、「枠」の制約が生み出す独自の可能性もある。
今ここにはどんな「枠」が生まれているのか。
その「枠」を意識しているか。その「枠」は外せるのか、外せないのか。
何も考えずにただ一般的なメディアのマネをすると、知らず知らずのうちに無意識の「枠」に可能性を潰されてしまう。