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孔明の罠
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絶対合格!テイエス女子大学

「『絶対合格!テイエス女子大学』……?」  俺ら高校3年生にとって夏休みは受験の天王山とも呼ばれる大事な時期だ。無論この俺、大塚秋人も例に漏れず一昼夜机と向かい合う毎日を過ごしているわけだけれど、つい先ほど手元の問題集は完璧にクリアしてしまったため、新しい物を買うべく書店に足を運んでみたものの品揃えが存外に悪く、あれでもないこれでもないと悩む最中、俺はそれを見つけた。 「……うーん、演習問題が中心みたいだけど……」  テイエス女子大学といえば男の俺でも聞き馴染みがある名門の大学だ。偏差値としても俺の志望校と大体一致していたはずだし、他に良い感じの物がないのならこれで勉強しても問題はないだろう。 「ただ、ちょっと恥ずかしいよなぁ……」  やっぱり今日のところは引き上げて、後日駅前の大きな書店を見に行くことにしよう。  そう思い、本を棚に戻そうとしたとき。 (『このレベルの大学に絶対に合格できるのですよ?ここは恥を忍んでも手に取るべきではありませんか?』)  不意にそんな言葉が脳裏をよぎった。一瞬誰かに話しかけられでもしたのかと思い辺りを見回すも、今ここには俺以外の誰もいない。 「なんだ、今の……」  なんだか少し薄気味が悪い。けれどその直感の発露みたいな出来事にあやかってみたくもなって、結局俺は『絶対合格!テイエス女子大学』を購入することにした。  その選択を俺は心底後悔することになるのだが、そんなこと、当時の俺にはまるで想像もつかなかったのだ。 ☆☆☆  家に着き、さっそく勉強に取り掛かろうとしたところで、買ってきた本の端書きが少し気になったため、斜め読みしてみた。  ところがそこに記されていたのは当たり障りのない挨拶や上梓に至る関係者への謝辞なんかではなかった。  テイエス女子大生になるための精神論とでもいうべきか……『淑女たる者、慎みをもって驕ることなきようー』、『日頃より品よく振舞い、所作礼節にて婦女の才色を彩りー』なんて気持ちの悪い文章が綴られていた。  令和のご時世にこんな端書きを入れて出版しているようじゃお里が知れるというものだ。さすがの俺も気分が悪くなってきた。 「うわぁ……買う本間違えたか…な…」  と、なぜか一瞬視界が明滅した。 「えっ?なんだ?」  慌てて周囲を窺うも部屋の様子は先ほどまでと変わりなく、きっと今のは体調不良で、自分も存外受験勉強で疲れているのかもしれないと思った。 「ま、俺の成績なら受験なんて余裕だろうし、今日はもう勉強……」  勉強しないで息抜きしちゃおうかな、と言いかけ、けれどそれは最後まで口に出ることはなかった。 『淑女たる者、慎みをもって驕ることなきようー』  先ほど書店で経験したような諭すような穏やかな響きが、端書きの一文を音読していた。そしてそれが、俺の意識を塗り替えた。 「……まあ、まだ夜も長いし、もう少しくらい勉強しておこう。人生のかかった受験で油断なんてよくないよな」  驕りはいけない。今は自分の欲は極力抑えて勉学に励むときだ。でないと、合格圏の大学にだって落ちないとも限らない。 「ーーそうだ。そうだよ。落ちる可能性はゼロじゃない……だけど俺には"俺を絶対に合格させてくれる"この本がある」  先ほどは感情が昂って乱暴な言葉を浮かべてしまったけれど、これは反省しなくてはいけない。そう、淑女は慎みが大事で、品を保たないといけない。  俺は気持ちを改め、真剣に端書きを読み返す。ここに書かれているひとつひとつがテイエス女子を志望する受験生にとって金言なんだ。すべてきっちり頭に入れて、普段からよく心がけておかないといけない。  ーーそうでないと、テイエス女子には受からないのだから。  その日から、この本は俺のバイブルになった。  取り憑かれたかのように四六時中それを携行し、読み耽り、そして夏休み明けの新学期に至る。 ☆☆☆  私の名前は白鳥椿。現在高校3年生。  さて、こんなことを女の私が口にしたら大層バカにされてしまうだろうけれど、それでもよく聞いてほしい。私は2ヶ月前まで、なんと男の子だったのだ。  性転換手術を受けたわけではない。私は女になることを望んでなんかいなかったし、そもそも高校生のうちから日本で性別を変えることは法律で許されていない。  にもかかわらず、こうして首元に赤いリボンを留め、ワイシャツを乳房で膨らませ、下半身を大いに露出させる衣服として頼りないスカートを身につけて、クラスの女子たちの輪に溶け込んでいるのは何故か。  きっと原因は、お姉ちゃんから譲り受けた『絶対合格!テイエス女子大学』とかいう問題集にあった。  今年無事にテイエス女子大学への入学を果たしたお姉ちゃんとは入れ替わりで、今度は私が受験生になった。  そして、受験勉強の問題集としてあの本のページをめくってしまった。  その日から私の身の回りのものや、友人知人、果ては私の身体に至るまで超自然的な変化が及んだ。さらには思考まで徐々に蝕まれていき、気がつけば私は問題集の著者がテイエス女子大生に相応しいと描くとおりの女子高生になっていた。  唯一の救いだったのは、情けのない話だけれど、私の元の成績がテイエス女子の受験に到底及ばないものだったことだ。そのため問題集は最後まで解かれることなく、こうして私は不完全な女子高生として、自意識だけはそのままでいられた。絶対合格を反故にさせるほどの学力を、私は誇りに思うべきだろう。  ただ、それでもみんなは私のことを初めから女子だったように誤認させられていて、生徒手帳や戸籍を見てもこの世界の私は女子として生を受けていたため、そんな状態で「自分は元男だ」と喚いても気狂いにしか思われないと考え(そこに至るまでいくらかやらかしをしたけれど、それは割愛ということで)、今となっては女子高生に擬態しているというわけだ。  もっとも、あの本に叩き込まれた女としての思想や記憶も併存しているため、日常生活を当たり障りなく過ごす分には問題ない。  けれど新学期初日、そんな成り損ないの私にとって、看過できない出来事が起きた。  大塚秋人。同じクラスの男子生徒。  だったはずの女子生徒が、私の隣に座っている。  細く艶やかで、肩にまで伸びた濡羽色の黒髪が風を受けてふわりとそよげば、彼女はすっかり華奢になった色白の細指で嫋やかに耳元を掻き分ける。  真剣に黒板と向き合うその瞳はつぶらで、時折りパチパチとする瞬きに合わせて上下する長くなった睫毛も相まって、可愛らしげな女子らしさが目立つ。  顔も以前より小さく丸っこく変わり、角張りを感じた男のものとは違って、柔和な印象を抱かせるものになっていた。  さらに透明感のある色白の肌が全体を覆い、薄く引かれたように整えられた弓形の黒い眉と桜色に艶めく唇とが差し色のようにささやかながら自己主張をする。  変わったところはもちろん顔に留まらない。  喉仏らしき出っ張りのない、弱々しい首に。  幅は狭く頼りのない撫で肩。  そこから伸びる腕もすっかり細々としていて、筋肉質に見えたものも今では柔らかそうな脂肪に置き換えられてしまっている。  脂肪といえば当然ながら、今の彼にはあれがある。  そう、乳房だ。  涼しげな半袖のワイシャツだというのに、たわわに実った双丘はブラジャー越しに胸部を暑苦しげに膨れあがらせ、その下部に大きな影を作り出している。男子はおろか、女子でもそうない巨乳が彼の身体の一部としてすっかり形成されていた。  その影のさらに下、ワイシャツは彼が下半身に履く衣服に仕舞い込まれていく。白かった生地は寒色に移り変わり、そしてチェック模様のプリーツスカートが現れる。  そんな筒状の衣服を通して姿を見せる両脚には無駄毛の1本もなく、また染みすら一切見当たらない……入念な手入れを思わせる、すらりとした美しいものになっていて、ソックスに包まれるそれらの内まで窺えないことが同性の(正確には異性だけど)私にさえ少し残念に思えるほどだ。  先生に指名され、淡々と朗読するその声も男子ではあり得ない綺麗に響くソプラノに。  読み終わり、着席する際には当然のようにスカートを両手で押さえる。女子であればそれはなんら不自然なことろではないけれど、男子だった彼が平然とこなすその様は、私に微かな目眩を引き起こさせた。  もはや誰がどう見たって、彼は間違いなく女子だった。 「……」  私だけが彼の異変に気づけているのは、半端にあの本の被害者となったために世界を作り変えるあの力に対する免疫ができたからだろうか。 (いや、そんなこと、考えたところで分かりっこない。今はそれより……)  彼が完全にあの本に染まる前に、唯一事情を知る私が引き戻してあげるべきだろう。  放課後、そんな使命感とともに、私は彼との待ち合わせ場所に指定した人気のない別棟準備室へと向かった。 ☆☆☆ 「あら、白鳥さん」  どうやら先に着いたのは彼だったようで、ドアを開けると涼やかな一声が返ってきた。  テイエス女子大学は俗な言い方をするとお嬢様学校だ。しきたりも厳格で、学生たちも品位を一段と大切にするのだそう。  であれば当然、あの本に感化された大塚くんもテイエス女子の模範になるような女子にされてしまっているわけで。 「それで、なぜ私はこのような場所にお呼ばれされたのでしょう?」  流麗な一礼をした後、気品を感じる笑みを浮かべてさっそく本題に入ろうとする彼。 「うん。えっとね、大塚さん、ひょっとしてさ、夏休みの間に『絶対合格!テイエス女子大学』って本を読んだり……」 「あら!白鳥さんもあの本をお読みになられているのですか!?」 「ぅひっ!?」  本のタイトルを口にした途端、彼の大きな瞳が爛々と輝き、さらに一瞬で握り拳も挟まらないほどの距離まで詰めてきた。 「……はっ、す、すみません!私ったら、はしたない……!」 「う、うんっ。別に大丈夫……!」  そんな彼女の愛らしい素振りに元男子な私がドギマギさせられてしまうのは仕方のないことだろう。いやしかし、彼は男だ。気をしっかり持て私。  よし、本題に切り込もう。 「……あのさ大塚くん、あなた、自分が男の子だったって自覚、ある?」  すると彼はキョトンとした顔で、可愛らしく小首を傾げてみせた。 「私が、男の子……ふふっ、一体なんのご冗談ですか?」 「いや、冗談じゃなくてさ!大塚さんって今の名前、『大塚春香』だよね!?」 「はい。春香という名前、男の方にはまるでそぐわないものだと私は思うのですが」 「違うのっ!あなたの本当の名前は『大塚秋人』!あなたはあの本の不思議な力で女子にされちゃったんだよ!」 「ふふ、そんなSFチックなお話あるはず……『秋人』……?」 「え?大塚くん?」 「お、お待ちください……秋人、秋人、そのお名前、私どこかで……」  やったっ!記憶が戻りかけてる! 「そうだよ!あなたは大塚秋人!勉強が得意な男の子で、髪の毛は切るのが面倒だからって刈り上げてたよ!あとほら、これっ!」  そして私は切り札になるかも分からず、ただ一応持ってきた物を彼に当ててあげた。 「こ、これは……なぜ白鳥さんが……?」 「私が男に戻ることを諦めきれなかった頃、自分で買ったものなんだけどね」  それは男子の制服だった。改変された世界で消えて無くなったそれを、私はなけなしのお小遣いで手に入れたのだ。  結局元に戻ること叶わず、観念して女子制服を着こなすようになったからこれまでまったく使われたことのないものだけど、 「男に、戻る……?」 「そ、私もあの本に、女子にされちゃったんだよね……まあ、だからさ、完全に元に戻すまではいかないにせよ、せめてあなたの本当の自我くらいは、私、取り戻してあげたいんだよね」 「……うっ!」 「頑張って大塚くん!あんな本なんかに負けないでっ!」 「ぐっ!あっ……!あ、あんな、本……?」 「……えっ?」  改善の兆しだと、そう思っていた。  頭痛に呻きながらも見惚れるほど綺麗な歩き方。淑やかに持ち上げ、伸ばした指先が徐に彼の鞄を開けた。  そして取り出されたのは、『絶対合格!テイエス女子大学』。 「ーーちょっ!?」  あろうことか彼は、それを読み始めてしまった。 「だ、ダメだって!それを読んじゃうと、大塚くんが大塚くんでなくなっちゃうのっ!!お願い!!読むのやめてっ!!」 「やめませんっ!!私はっ、私はぁっ!!大塚春香なんです!!私は女性として生を受け、そしてテイエス女子大学に絶対に合格するのですっ!!」 「っ!こ、このわからずやっ!!」  そしていよいよ私が取っ組み合いを決意したその時、 「春香、お待たせ」  後方のドアが開かれ、聞き慣れない声と共に、知らない女性が準備室に踏み入ってきた。 「ふ、ふふふっ……」  なお本から目を離さない大塚くんが、その端正な顔を幾ばくか歪ませ、さらに不気味に笑うものだから、私は薄気味が悪くなって彼から一歩身を引いた。 「……あ、あのっ、あなたはいったい……」  とりあえず突然の闖入者に声を掛ける。 「私?私は大塚春美。そこにいる春香の姉です」  大塚くんの、お姉さん……っていうことは! 「お姉さん、お願いです!大塚くんを助けてください!彼は今、その本に取り憑かれちゃってるんですっ!早く助けなきゃ、きっと手遅れに……」  おそらく彼女にも大塚くんが男の子だった時の記憶はない。けれど、彼のこの本への執着を目の当たりにすれば異常に気がつくかもしれない! 「ええもちろん。私はね、春香を助けにきたのよ」 「お、お姉さ……」  そんな察しのいいことを言ってくれたお姉さんは、颯爽と彼から本を取り上げ……! 「……え?」  そして、開かれた本を私の目の前にぐいと押し付けてきた。 「えっと、お姉さん?これはいったい……」 「だから言ってるでしょう?助けに来たのよ、春香を、あなたから」  瞬間、背後から衝撃を受ける。 「なっ……は、離してっ……!」  気づけば大塚くんが私を羽交い締めしていた。 「さて、そんな身動きの取れない貴女に、私たちからプレゼントがあります」  そう言ってにこりと微笑むお姉さん。見る者の目を奪う嫣然としたその顔に思わず見惚れてしまう。 「私の通うテイエス女子大学には『共に歩む仲間には手を差し伸べ、救いの道を照らすべし』なんて素敵な教義があるの」  開かれたページの一文が彼女の綺麗な指先でつうとなぞられた。 「春香ちゃんがね、"貴女がそうなんだ"って、だから自分を、そして貴女を助けてほしいって」  ゆっくりと、けれど確実に捲られていく本。  そこに書かれているものが、私の心を甘く、柔らかく溶かしていく。 「さあ、今度こそ貴女は正しい存在に生まれ変わるの。そして私の妹と一緒に私の大学に入るのよ」  目を閉じようとした。  けれどこの目は私の意思に反して、最低限の瞬きを除いてひたすらに本を読み耽る。 「あ、あぁっ……」  暴れてやろうともした。  けれど身体は本の教えに従って、目上の人に粗相のないよう従順に。 「う……あ……」  暴言なんか、吐けるわけもない。  だって私は、テイエス女子大学に絶対に合格するのだから。目指す大学が指し示す、模範の女子にならなければいけない。 「これで教えは読み終わったわね。問題自体は自分でやらせればいいでしょう……さて、白鳥椿ちゃん、改めて自己紹介をお願いできるかしら?」  私は立ち上がり、両手を下腹部に重ねてから、恭しくお辞儀をした。 「はい。私は白鳥椿と申します。春香さんとお姉様、それからこの本のおかげで、私は私が本当に進むべき道に気づくことができました」 「ふふっ、貴女のその可愛らしい微笑み、すごく素敵よ?」 「ありがとうございます、嬉しいです」  私はこれからこの本を何回でも読み返して、テイエス女子大学に合格して、今よりもっともっと魅力的な女性になるんだ。 「椿さん、お互い頑張りましょうね」 「ええ、春香さん」 「困ったことがあればいつでも相談してくださいね?そうだ、今度のオープンキャンバス、私がご案内しましょうか?」 「いいのですかお姉様!?ぜひ行きましょう椿さん!」 「はいっ!よろしくお願いします!」  テイエス女子大学、今からとっても楽しみです!!

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