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10万フォロワーまでを全部振り返る#3

大学3年生。

進路の話が始まりました。

多摩美術大学は「美術」という名前が付いている数少ない大学で、美術大学は多摩美と武蔵美以外には存在しません。美術大学はもうこれ以上日本に必要ないので、文部科学省が認可しないみたいです。


その名の通り、多摩美は「美術」として認められているものに対して秀でているものが優秀とされます。

例えば、油絵。服飾。工業製品のデザイン。広告デザイン。日本画。芸術アニメ。

色々なものが今の日本では美術と認められています。


認められた美術の中に僕が好きな「ヲタクイラスト」や「商業アニメ」はありませんでした。

そんなものを描いて何になるの?というような空気感が大学全体にありました。

それでも毎年ジャンプ作家が出たりするので、もっと強い志があれば何とかなったのかもしれません。


今思うと「美術」を学ぶ人に対するサポートは本当に手厚いので、「美術」から「ヲタクイラスト」に技術を流入出来るような柔軟性のある人は多摩美でも問題なく学べたのだと思います。

当時の僕はそこまで柔軟に物事を考えられず、相談出来る誰かがいるわけでもなく。

ここで「ヲタクイラスト」を描いても何も認められないことだけがわかっていました。



3年生になると「専攻」と言って、何を専門で学ぶかを決められるのですが、

僕は唯一参考作品になれたアニメーションを専攻にしました。

アニメーションといっても商業アニメではなく、芸術アニメーションです。

唯一僕の作品にコメントくれた先生とならやっていけるかな?と思ったこともあるのですが、その先生は体調不良で大学を休みがちになり亡くなりました。

代わりのアニメーションの先生がきてくれたのですが、アニメーションへの熱量はもうそんなにありませんでした。





この頃にはもう何が出来て何が仕事になるのかわからなくなっていました。

わからないのでとりあえず会社を作ってみたりして、モバゲーのアプリのデザインの仕事をやってみたりしました。

開発は途中で頓挫したのですが、それなりの大金が貰えました。

今思えばソシャゲバブルの時代だったのでこんなことが出来たのですが、当時の僕は「仕事はこれでいいか〜」と思い、就職活動もあまりしませんでした。



就職活動は電通、博報堂に受かる人がもう絶対偉くて。

唯一僕でも行けそうかな?と思うゲーム系は変わり者が受けるような空気感でした。


ゲームをするのは好きだったのですが、プログラミングが好きではないのでゲームを作ることはあんまり好きではありませんでした。


同級生の僕に向ける視線は、完全に絵が下手な可哀想な人になっていて、なるべく同級生と会いたくありませんでした。

多摩美で「美術」に対して折れている人間は本当に肩身が狭いです。



描いても何にもならないヲタクイラストを描く気になれず、唯一描く機会だったのはニコニコを通じて知り合った人のサムネイルを描いていました。

おえちゃんのサムネは歴代ほとんど僕だったはずです。


また、絵を描くことが嫌いになっていました。

より正確に言うと「美術」が嫌いになっていましたが、当時の僕は「美術」と「絵を描くこと」の切り分けが出来ていませんでした。




そんな中、サークルの後輩の可愛い子と付き合い始めました。

今、嫁になっています。

彼女もヲタクイラストが好きで、漫画を貸し借り出来る数少ない人でした。

僕の家にはハンターハンターやワンピースなど、ジャンプ漫画の単行本が色々あったので、僕がニコニコを見たり課題をやったりしている後ろで彼女が漫画を読んでいる時間が好きでした。


大学内で「美術」に認められないものは日陰者だと思いますが、日陰者同士相性が良かったのかもしれません。



大学4年生。

卒業制作が始まりました。

2年生のとき、唯一参考作品になれたアニメーションを何となく専攻していたので、

何となくアニメーションで卒業制作をすることになりました。


この時点でようやく気づいたのですが、芸術アニメーションというものは「世界に対して何か言いたいことがある人がそれを伝える言語」で、「絵が動いて面白い」というだけの人が作るものではありませんでした。


僕はもう何を作っていいかわからず、初めて先生に相談しました。


僕はすごい映像が作ってみたいだけで、特に表現したいものがないんです。

東京に来て、電車に乗っているとこの電車はどこまで行くんだろう?と思うので、真っ直ぐの線路をずっと走るアニメーションが作りたいです。

でも真っ直ぐ走ることに対して、何のメッセージもないです。


先生は少し考えて、


じゃあ線路を走ると少しずつ過去に行くのはどうかな?

恐竜の時代より前に、ビッグバンより前に現代より栄えている都市があると面白くない?


と言いました。

卒業制作は2〜3分のアニメを作るのですが、わずか数秒で意味のわからない生徒の妄言から2〜3分のアニメで表現出来るアイデアを出せる人がいるという事実に驚きました。

それと同時に、芸術アニメーションはこのアイデアを出せる人が食べられる世界なのだと思いました。



卒業制作で、芸術アニメーションからも卒業しようと思いました。

参考作品にはなれたけど、僕はここでも戦えないと思ってしまいました。


半年以上、大学にもほとんど行かず、ずっと家でアニメを作りました。

没頭している間は何も考えなくて良いので、アニメを作ることは辛いけど好きでした。


提出日の当日朝5時くらいにアニメーションが完成しました。

提出したとき、アニメを見た先生が「うん。頑張ったね。」と言ってくれました。

先生が努力を認めてくれたのは初めてでした。


卒業制作は全員の作品が恵比寿ガーデンプレイスで展示されます。

その展示を見てくださった銀座のギャラリーの方が私のギャラリーで展示してくれないか?と声をかけてくださり、展示させてもらいました。


そのあとニューヨークでも展示させてもらったのですが、特に何か仕事になることもなく、芸術アニメーションは辞めました。



卒業は出来たのですが大学4年間で、完全に「美術」が嫌いになっていました。

何も考える余裕がなくて、東京で特に仕事もないので大嫌いな田舎に帰ることになりました。


この頃のことはあまり記憶がないのですが、ずっと頭がぼーっとしていました。

絵を描きたいと思う気持ちもなくなっていて、残りの人生は長い虚無が続いているのだということだけがぼんやりと分かっていました。

10万フォロワーまでを全部振り返る#3

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