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10万フォロワーまでを全部振り返る#1

先日Xで10万フォロワーに到達出来ました。

まず、この記事を読んでくれるほど僕に興味を持ってくれている“あなた”にお礼を言いたいです。

あなたがいたから、僕は1つ目標を達成出来ました。

本当に本当に嬉しいです。ありがとうございます。


今日は知りたい人もいるかもしれないと思って、僕がここまでどういうことを考えながら絵を描いてきたのかを振り返ってみます。

簡単にまとめると『絵の「思い出」なんか1個も無い。ぜんぶここにあんねん。全部!!!俺の筋肉や!!!!(CV宮侑)』みたいな内容です。


すごい長文なので、そんなに興味のない人はここまででも良いと思います。

でももしあなたが絵で悩んでいるのなら、僕の経験は少しだけ役に立つかもしれません。少しだけでも読んでみて。






僕が絵を描き始めたのは中学2年生でした。ちなみに今35歳です。


田舎の嫌なところを全部煮詰めたエスカレーターなんちゃって私立進学校に幼稚園から入っていて、小学校までは結構成績は良かった方だと思います。

夏休みに描いた絵は毎年何かしらの賞をとっていました。


中学校に入って最初のテストで「てんぷらをローマ字で描け」という問題が出ました。

この問題を出すと言うことは何か知らないルールがあるんだろうなという問題の悪意だけを受け取りながらもルールを知らなくて「tenpura」と書いて提出するしかなかったとき、何か糸が切れた感覚があって勉強をやめました。



中2の春。本屋に行ったとき、ヒカルの碁15巻の表紙を見て衝撃を受けました。

穏やかな表情で優しく流麗に舞う藤原佐為に憧れて、僕は絵を描き始めました。

授業中、ずっとヒカルの碁の模写をしていたことを覚えてます。


両親は勉強を期待して進学校に入れていて、でも進学校で絵を描くことは悪いことで、教員の皆様は見事に腐ったミカン扱いをしてくれました。

両親も弟と比べて劣っている扱いがすごく激しかったです。

家庭でも父親に何故勉強をしないのかと深夜まで怒られました。


やりたいことは絵を描くことしかないのに、絵を描くと怒られるので居場所がどこにもありませんでした。



中3になって、祖母が美術予備校に通うことを勧めてくれました。

親戚に1人だけ関西の美術系大学に通っていた人がいて、その人に相談してくれたようでした。

特に行きたい美術大学もなかったんだけど、週2回3時間だけでも怒られずに絵を描ける場所が出来たことが本当に嬉しかったです。

見たものをそのまま描く。シンプルだけど一生終わりのない鉛筆デッサンと初めて出会いました。デッサンに没頭してる間は嫌なことを考えなくて済むので、デッサンが好きでした。

予備校に行くことが楽しみでした。



高校1年。

本格的に進路の話が始まりました。

東京芸大、多摩美、武蔵美が日本でTOP3の美術大学で、そのどれか以外への進学は認めない、浪人は認めないと言われました。

この3校は浪人して入るのが当たり前の学校で、芸大は3浪4浪が当たり前にいて、タマムサでも1浪が1番多い学校です。


この時点で予備校にある参考作品(卒業生が予備校にいたときに描いた良い作品)を見て、自分には絵の才能がそこまでないことは分かっていました。

大富豪で言えば10くらいの才能が僕に配られたカードでした。


調べてみると東京芸大は本当にバケモノしか入れない大学で、日本中からjokerを集めることを目標にした大学だと思いました。

多摩美、武蔵美はQ、K、A、2くらいの人が入る場所なんだろうなと参考作品を見て思いました。


この3校の受験は奇跡とか思いつきで入れるものではなく、日本屈指の画力スカウターを持っているであろう教授陣がちゃんと採点するみたいです。

現役合格するのは無理だろうなと思いました。


絵を描くこととゲームをすることくらいしか楽しみがなく、将来職業になりそうな事は絵なのに、絵を高校3年生で辞めることになる。

大嫌いなこの田舎で、一生好きじゃないことをして生きていく未来を想像することは高校1年の僕には辛いことでした。


美術大学に入りたい人は一般的には高校3年から美術予備校に入ります。

そのあと(才能があるという意味も試験問題の相性も含む意味で)運が良ければ現役で、普通は1浪して美術大学に入ります。

高校1年の段階で美術予備校に通えていることが、10の僕がQ〜2の人に勝てる唯一の要素でした。



高校2年。

この3校のオープンキャンパスに行きました。

東京芸大はどうせ入れないのに動物園が近くにあって臭いし、武蔵美は空気がどんよりしている気がしたので、多摩美のグラフ(通称タマグラ)を受験することに決めました。


予備校の卒業生の参考作品と現状の自分の作品を比べて、このままだと合格ラインに到達しないことは分かっていました。


合格出来ず、絵を辞める。好きでもない職業に半世紀費やして何となく死んでいく。

才能的に分不相応でも合格し、とりあえず絵を4年間長く続けられる。


今思うとそれ以外にも色々と選択肢はあったと思うんだけど、当時の僕にあった将来の選択肢はこの2つでした。

「とりあえず続けてみたら何か起こるのかな」と思ったので、合格する方法を考えることにしました。



ここが人生の1つ目のターニングポイントで、初めて絵に対して戦略を持ち込んだ瞬間でした。


今は変わっているかもしれませんが、タマグラの実技は当時「両手と⚪︎⚪︎」のような両手と何かを描かせる5時間デッサン

何か英単語が出て、それに対してポスターのようなものを製作する5時間の平面構成の2つがありました。


美大受験を知らない人もいっぱいいると思うので少し説明するんですけど、

試験開始と同時に課題を見て、ポーズと構成を考え、そのあとデッサンに入ります。

大体1時間以内に製作に入り、両手と当日発表されるモチーフを4時間で描きます。


僕が合格者と同じように、4時間で戦うと絶対に勝てないことが分かっていました。


今でもたまにやる手なのですが、格上に対して絵で勝とうとするとき、格下が出来ることは2つです。

・製作時間を格上よりも長くとる

・得意なものを描く

基本的にはこれしかないと思っています。


5時間という限られた時間で格上に勝つため、描く両手のポーズを1種類にしました。


製作時間を他の受験生より多めに取り、練習するべき手のポーズを1種類にすることにより1種類だけは上達するんじゃないか?と高校2年生の僕は考えたのです。


それから受験まで、練習したのは1種類の両手だけでした。



高校3年生。

学校にも家にも居場所がないのに、予備校も辛い場所になってきました。

1種類に絞ったデッサンは少しずつ上達していました。

それでも参考作品と比べたとき、まだ負けていました。


予備校の先生は僕を受験に合格させることが仕事なので、どんどん言葉がきつくなっていました。今で言うパワハラです。


「前回の絵で何を学んだのか教えて」

「これで合格すると思う?」

「もっと見て描いて」


先生に絵を講評してもらうことが辛かったです。

言われていることは正しくて、理解出来ていて。でもどうすればいいかわからない。

美術は「わかった人だけが次のステップに進める」世界で、つまづいた階段があれば一生そこで足踏みをすることになります。


絵しかやれそうな仕事がなかったのに、絵を描くことがどんどん辛くなりました。

もしも不合格だった場合、自殺しようと思っていました。

40%くらいで合格出来るかなと思っていました。


今思うとこのあたりから睡眠障害を発症していて、睡眠障害は現在でも戦っている最中です。

この頃に抱いた希死念慮は今までずっと薄くなることはあってもゼロになることはないです。


大学受験。

合格しました。

とりあえず絵を4年長く続けられることが決まって嬉しかったです。

嘘です。正確に言えば嬉しいが10%、死ななくて済んだ安心が90%でした。


受験の終わった3月はずっとHALO3というFPSをしていて、気がついたら最高ランクになっていました。


喜んだのも束の間で、また次の地獄が始まります。

思ったより10倍長文なので1日30分ずつ書きます!とりあえず続く!!




10万フォロワーまでを全部振り返る#1

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