僕は時々「今だけ生きる」という言葉を戒めとして使うことがある。
だけど、「今だけ生きる」とは何を指すのかが明確になっていなかったように思えた。
何故、僕はここ数年、これほどまでに自分の感情や周囲の人間関係に苦しんだのか?
自分の中の何が欠けていたのか、しっかりと見つめる必要を感じた。
他人や環境を責める前に、自分の中の欠点と向き合うためにーーー
まず「今だけ生きる」とは何か。
一所懸命であること?
では「一所懸命」とは何だろうか。
好きなことだけをすること?
というと、違うような気がする。
少なくとも僕にとっては違う。
何故なら、僕が好きなことだけをやってしまうと、我欲に塗れて生活がボロボロになってしまった経験があまりにも多いから。
欲望に絆されて、順調だったことすらも上手くいかなくなり、身近な者にも迷惑を掛けた末に、心を病んでしまう。
となれば「今だけ生きる」というのは、「好きなことだけをすること」ではなく、「(選択的に)得意なことをすること」だと思える。
それも、"やりたいこと"よりも"やらねばならないこと"を優先すること。
ただ、得意なことであっても、やらねばならないことを続けていくことには負荷が掛かってしまう。
結果、いつもいつも僕は物事が短期的で、何処かで息切れをしてつまらない失敗をする。
ここまで綴っていて、「あーやっぱりね」と再認識させられたこと。
どうやら「今だけ生きる」というのは、「耐えることの連続性を保つこと」であることがわかってきた。
即ち「我慢する」ということ。
では、何処まで我慢をする必要があるのか。
先行きの見えない未来に不安を抱えながら耐え続けないといけないのか?
実は過去を含めて、未来というのは、仏教上存在しないらしい。
それらは現象である。
その現象である未来のことを想像しても仕方がないことなのか?
不明確で不鮮明な未来をあれこれ考えるだけ無駄なのか?
もし、先行きを無視して、今日だけ好きなことをしてしまったら元の木阿弥になってしまう。
だから、敢えて僕は未来を想像してみることにした。
30年後の僕は?
茫漠としてわからないーー暗闇。
では10年後の僕は?
やはり霞がかっていてよくわからない。
では3年後は…?
なんだろう、少しだけ「こうなっていたらいいな」という自分の輪郭が見える気がする。
では1年後は……
……
……
ある。
という自分の姿がーー
僕は気付いた。
今だけ生きるというのは、決して先行きを無視して今この瞬間を生きることでもない。
自分がなりたい自分である少し先の未来を想像して、今だけを生きること。
そう思った。
「今だけ生きる」というのは「一所懸命得意とする分野に打ち込んで練度を鍛えること」であり、「何事にも動じない精神強度を磨き上げていくこと」でもある。
僕の人生にやり直しは利かない。
だからこそ、少し先の未来の僕が、今よりも心も身体も生活も豊かであろうと、心から強く想う。
1年後の僕へ。
そして、暗闇しか見えない10年後の僕へーー
僕は誰にも負けない。