「………………」
チュン、チュン、チュン。
「うぅ……」
「アグニ様! アグニ様!」
「はっ!」
身体を揺さぶられてアグニは唐突に意識を覚醒させた。
ここは!?
視界に入ったのはカタリナと昨日案内された屋敷の部屋だ。
あの薄暗い部屋ではない。
「アグニ様、大丈夫ですか!? うなされておりましたが」
うなされていた?
カタリナの言葉にアグニは納得が行った。
昨日のあれは夢だったのだ。
でなければ、自分がここで寝ているのが説明がつかない。
女王陛下のメイドが自分を拘束し、不埒な真似をするなど外交問題になりかねないのだ。
手足も普通に動く。
よかった!
あれが夢で!
人間、認めたくない記憶については都合のよい方向へと考えてしまう。
アグニはあれが夢だと割りきって忘れることにするのだった。
「もう大丈夫です。心配をかけましたね」
「アグニ様がご無事なら問題はありません」
カタリナは安堵の色を浮かべて胸を撫で下ろした。
「それよりも城へ向かわなければならないので、早く準備をしてください」
「えぇ、わかっていますよ」
アグニはベッドから起き上がり、身支度を整えるために浴室へと向かった。
リルと今日も謁見がある。
朝は城に顔を出すように言われているので面倒だが、いかなければならない。
「………」
そんなアグニの様子を物陰からじっと見つめる少女の姿があった。その顔には邪悪な笑みが浮かんでいる。
◆
「よく来てくれました。アグニ王子」
応接間へ通されると、すでに椅子に腰掛けたリルが笑顔で歓迎する。
相変わらずの美しさだ。
だが、中身は常人ではない。
魔性と狂気を秘めた魔女だ。
アグニが1日めで受けたリルの印象だった。
というか、四つん這いの男を椅子にしている女性を常人と見るのは不可能だった。
ここで怒ったり動揺しても意味がない。
リルへ道徳心を説くのは無駄だと、アグニは諦めていた。
「本日はお招きいただきありがとうございます。リル女王陛下」
アグニも爽やかな笑みを貼り付け、挨拶を交わす。
互いに貴族である以上、腹の中は見せない。
「それにしても随分とお早い到着ですね」
皮肉ですか。
「申し訳ありません。少し道に迷いまして」
「そうでしたか。まぁ、立ち話も何ですしこちらへどうぞ」
そう言ってリルはむかいの椅子へ視線を向けた。
よかった。
普通の椅子だ。
彼女と同じ様に人間に座れて言われたら遠慮していただろう。
「失礼します」
勧められるがままに席に着く。
リルの専属のメイドであるミーシャだけだ。
カタリナは何故か別室に案内されており、本来なら王族には何人もの侍女や執事がいるはずなのに、ここにはいない。
それに護衛もだ。
騎士1人いないなど不用心すぎる。
こちらが子供だと余裕を見せている?
暗殺までもありえるのでは、と考えるアグニに対し、リルはどこまでも無警戒だった。
「アグニ王子は紅茶より珈琲の方がよろしいでしょうか?」
「いえ、お構いなく」
「そうおっしゃらずに座って話しましょう? お互い友好国ですもの」
リルはアグニの言葉を無視してミーシャに紅茶を入れさせた。
甘い香りが心を落ち着かせてくれるはずなのに、ぜんぜん落ち着かない。
テーブルに置かれた紅茶を飲む気にはなれなかったし、一刻も早くこの部屋から出たかった。
リルが座る奴隷の事が気になってアグニはとにかく部屋から出たかったのだが、リルはすぐに退散させるつもりもないのだろう。
「では、クッキーはどうかしら? 我が国の自慢の砂糖農園で作らせた砂糖はとても質がいいのよ」
リルが女王になってから、この国の経済力は年々増していた。
恐らくは昨日見たように男を奴隷として酷使し続けているならだろう。
ひどいやり方だが、一時的な生産性は上がるかもしれない。
だが、短期的なものだろう。
奴隷も人間なのだから、休みなく働かせれば必ず能率が落ちるはずなのだから……。
「いえ、食欲もないので」
遠慮するアグニに対して、リルは目をニィ、と細めた。
まるで、アグニは自分が罠にでもかけられたかの様な不安を感じる。
「やっぱり、アグニ王子はこちらがよろしいのかしらね?」
リルがパチン、と指を鳴らすと、背後からミーシャが新しいポットを持って近づいてきた。
「あの、飲み物もいらないのですが……」
別に珈琲を出されても飲むつもりはない。
アグニは淹れてもらう前に遠慮したが、ミーシャは何故か得意気に笑い、
「一嗅ぎすれば気もかわりますわ」
それだけ言うと、空のカップにトポトポと中身を注いでいく。
「だから、いらな……」
カップに満たされた液体を見てアグニは言葉を失った。
珈琲でも紅茶でもなく、湯気を立てた薄く灰色に濁った液体が満たされたのだ。
そこには糸屑や油らしき汚れもあり、明らかに人間に出すものではなかった。
ましてや他国の王子にこんな得体の知れないものを出すなんて冗談でも済まない。
「ふざけるのも!?」
屈辱で言葉が荒くなったアグニだが、一呼吸したその立ち昇る湯気を吸った瞬間、身体に電流が駆け抜けて言葉を失った。
薄まっても臭いは強烈で、脳裏に焼きついた記憶を無理やり呼び起こす。
これって――。
ドクン!
意思とは関係なく心臓の鼓動が不自然に大きくなった様に感じる。
(え? え? 昨日のは夢じゃない……のか?)
混乱して見上げると、ポットを傾けるミーシャと目があった。
自分とは比べ物にならない身分の相手なのに、彼女は視線をそらすことなく椅子に座るアグニを見下ろしながら笑っていた。