「思い出のワンピース」 プロローグ 雪田千代子の憂鬱 ヒロくんはよくできた息子さんで羨ましいわ――雪田千代子はそう言われるたびに、心臓に刺さったトゲに触られるような気分になる。 じっさい、高校3年生の長男・博希は申し分のない「できた息子」だ。 通っているのは都立の進学校。この春まで、生徒副会長を務めていた。責任感が強く頼まれたらいやとは言えない性格のためか、クラスメイトどころか先生からも頼りにされているようで、とうぜん友人も多い。それでいて悪い遊びを覚えることもなく、夏休みに入ったばかりの今日も、朝から2階の自室で受験勉強に励んでいる。 容姿もやや柔弱なきらいはあるものの端麗で、少女めいた美貌。体格も小柄で華奢なため、男子制服を着ていないと女子に間違われることもしばしばだったが――取り立てた問題ではない。 非の打ちどころのない、真面目な息子。 そんな風に育ってくれたことに感謝こそすれ、文句をつけたり、不満を述べたりするのはあまりにも贅沢というものだ。 しかし一方で、母親だからこその心配もあり―― 「あら」 リビングのソファで憂鬱な面持ちをしていた千代子の思考は、ふいに鳴ったチャイムによって中断された。 立ち上がってインターホンの画面を確認すると、 「愛那でーす。博希くん、いますか?」 「ええ、ちょっと待ってちょうだい」 玄関前に立っていたのは、ひとりの女子高生だった。半袖ブラウスに青系チェックプリーツスカート、襟にグレー系リボンという女子制服姿だ。 その姿に、千代子は愁眉を開く。彼女こそ、「優等生」の博希について同じ悩みを共有している、数少ない一人であった。 玄関に行きしな、階段越しに2階の息子に声をかける。 「ヒロ、愛那ちゃんが来たわよ」 「はーい」 返事を聞いてから、一足先に玄関の鍵を開けて、訪問者を出迎えた。 「いらっしゃい、愛那ちゃん。今日も遊びに誘いに来てくれて、ありがとうね」 「いえいえ、あたしが好きでやってることですから」 女子高生――博希とは幼稚園から高校まで同じ、いわゆる「幼馴染」に当たる岡崎愛那は、にっこりと笑って首を振った。 背が高く胸も大きい、高校生離れしたプロポーション。面長の整った顔立ちと、シュシュでポニーテールに結い上げた艶やかな黒髪は、女優かモデルと言われても違和感がないほどだ。 受験勉強中の息子を遊びに誘いに来る異性など、歓迎しない母親も多いだろう。しかし千代子は満面の笑顔で、 「それでも、よ。愛那ちゃんが誘ってくれなければ、あの子、ぜんぜん遊びになんていかないんだもの。今日はどこに連れて行ってくれるのかしら?」 「隣町の、レジャープールです。親戚からチケットをもらったので」 「あら、ありがとうね。冷たいのものを用意しておくから、ぜひ帰りに寄ってちょうだい」 「はい。お言葉に甘えさせてもらいます」 愛那が礼儀正しく頭を下げると、制服の胸元と後頭部のポニーテールが大きく揺れた。 そこへ、 「お待たせ、愛那」 こちらも制服姿――もちろん男子用だったが――の博希がようやく、プールバッグを持って下りてきた。 彼の鼻先に、愛那はびしっと指を突き付けて、 「遅いよ、ヒロ! せっかくこんな可愛い女の子とプールに行けるんだから、もうちょっとイソイソと心待ちにしてくれてもいいんじゃないかな?」 「可愛い女の子……って、自分で言うかなぁ」 幼馴染のいつもの軽口に、博希は苦笑いしつつ、 「でも、誘ってくれてありがとう。それじゃ母さん、行ってきます」 「はい、行ってらっしゃい。気を付けて、楽しんでらっしゃいね」 「いってきまーす」 出かける二人を玄関先で見送って、千代子は小さく吐息を漏らした。 誰もが認める「優等生」の息子――その根底にあるのが、実は主体性のなさと、無趣味の賜物だということを、母親はわかっていた。 他人に言われ、期待されているからその通りに動く。勉強も、学校での活動も、友人関係も。その結果、「優等生」という評価が出来上がったに過ぎない。ああして遊びに行っていることさえも、単に「愛那に誘われたから」でしかないのだ。 考えすぎと言われたこともあるが、彼が自分から何をしたい、何が欲しいというのを、ついぞ耳にした覚えがないのはどう考えてもおかしい。ほかの母親たちの愚痴を聞く限り、子供はもっとわがままで、欲しがりで、親の言うことになど耳を貸さないものだ。 とはいえ、親のほうから「わがままになりなさい」というのもおかしな話で、母親としては気にはかかるが何もできなかった。海外出張中の夫を煩わせるのも申し訳ない。 幸いなことに、幼馴染の愛那が同じように気にかけているらしく、あれやこれやと遊びに誘ってくれているし、息子のほうも、やや強引な愛那に困惑しつつも楽しそうに付き合っている。 (愛那ちゃんと一緒にいるのが好き――なら、それもそれでよかったんだけど、ねぇ。どっちもそういう感じじゃなさそうだし) 千代子にできるのは、そんな愛那に感謝しつつ、彼女が「当たり」を引くのを待つくらいだった。 (……いつか、自分の楽しみを見出してくれるといいのだけれど) 心中で願いつつ、彼女は気持ちを切り替えて、主婦としての仕事に取りかかった。 2階最奥――廊下の突き当りにある、物置部屋の整理である。 もとは冠婚葬祭でしか着ない一張羅や、千代子が趣味で作った衣類などを入れておくための部屋だったのだが、使わない家具や家電の一時保管場所として用いるうち、いつしか「物置部屋」になってしまっていた。これではいけないと思い立ち、整理を始めたのが一ケ月ほど前のこと。以来、ゴミ収集のペースに合わせて必要なものを仕分け、不要なものを処分している。 今日の主眼は、古い木製のドレッサーだった。もともと千代子が独身時代から使っていたものだが、建付けが悪かったため買い替えることになり、10年ほど前に物置部屋送りにされたのだ。 「お化粧品は……もう古いから、使えなさそうね。ネックレスも……これは磨かないとダメかしら。このスカーフはまだ使えそうだから洗って、ポケットティッシュも捨てて――」 つぶやきながら仕分けを続けていた彼女の手が、ふと埃にまみれた革張りの冊子をつかみ上げた。表面を拭いてからパラパラとめくると、透明なシートの中にたくさんの写真が入っていて、 「あら、アルバム。こんなところにあったのね」 小さく笑ってつぶやきながら、めくってゆく。 写真は博希が生まれてから、小学校に上がってすぐくらいまでのもの。家族写真や、愛那と一緒に写っているものも多かった。 「ふふっ、懐かしいわ……あら」 小夜の目が、一枚の写真に釘付けになる。 それは一見すると何の変哲もない、ふたりの少女が並んで立っている写真だった。しかし小夜は珍しく声を上げて笑い、 「あははっ、あったわね、こんなこと。あの時の服は捨ててないから、たぶん、そのへんの箪笥のどこかに……あった!」 衣装箪笥の中から取り出した服を広げ、小夜はうれしそうな声を上げて目を細めた。 「ほんとに、懐かしいわ……そういえば、あの時のヒロは――」 ふいに小夜は、ガラクタの中から宝石を見つけたかのような声でつぶやいた。 数秒、身じろぎもせずじっと考え込んでいたが、 「――うん、やってみる価値は、あるわね」 はっきりとした声で言うと、写真と服をもって、物置部屋を後にしたのだった。 (続く)