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連載小説「やりなおし」(26)

 1-2.邂逅   (12)  振り返るまでもなく、歩実はその声の正体を知っていた。  家族を除き、歩実を名前で呼ぶ人はごくごく限られている。歩実自身が女の子っぽい自分の名前をあまり好きではないこともあって、男友達には「川島」呼びさせているためだ。まして女子とは、名前を呼び合う関係の相手は一人しか存在しない。  なにより、その少女の声を歩実が忘れるはずもない。中学時代の三年間、ほとんど毎日のように聞いていたその声。明瞭で、怜悧で、やや強引な気性をうかがわせるところさえも、歩実にとっては懐かしく、慕わしい。  しかし、いまは―― (振り返るな、振り返るな……!)  歩実は必死に、自分に言い聞かせる。  ただでさえ、幼稚園児のようなブラウスとサロペット、頭には大きなリボン付きカチューシャという、知り合いに見つかるとまずい服装なのだ。いや、たとえ普通の服装だったとしても、歩実には彼女に会わせる顔がなかった。  ここは聞こえなかったふりをして背を向け、すぐに立ち去るのがベストである。 (振り返っちゃダメだ、振り返っちゃダメだ――!)  なのに、 (振り返ったら、ダメなのに――)  声の方向に体を向ける動きを、止めることができない。  およそ1年半ぶりの再会――理屈ではなく体が、彼女を求めてしまう。  実時間にしてコンマ1秒ほどの、しかし歩実にとっては永劫とも思える葛藤と渇望の果てに――ついにその少女の姿を、視界に入れる。 (あ……)  ほとんど記憶にあるそのままの、しかしあの時より大人びた姿が、そこにあった。  やや丸顔でふっくらとした頬と、細いおとがい。二重瞼の猫目に、長い睫毛、大きな黒瞳。すらりと細い鼻梁と、小さな桜色の唇。造作そのものは童顔だが、目元のせいか凛々しい印象だ。濡れたように艶やかな黒髪をポニーテールに結わえ、前髪が秀でた額にかかっている。  着ているのは中学時代によく見たセーラー服ではなく、半袖ブラウスに紺のスカート、水色の紐リボンという、私立女子校の制服。その胸元は、記憶にあるより二回りほど大きく膨らんでいて、この1年半の成長をうかがわせた。  彼女は驚きの表情を浮かべて、じっと歩実を見つめている。 (恭子――!)  こみ上げる想いに、我を忘れて名前を呼びそうになるのを、歩実はぐっと飲みこんで沈黙を守る。  それでも、相手は「少女」が歩実であることをさらに確信したようで、 「やっぱり……歩実なんでしょ? ねぇ、なんで――」 「ち……違います! 人違いですっ!」  歩実は叫ぶように言って、彼女に背を向けて駆け出した。その拍子にスカートがめくれて、おむつのお尻側にあるお姫様プリントが見られることもお構いなしに。  商品棚の影に身を隠すように角を曲がったとき、歩実はちらりと彼女の姿を見る。追いかけてくることもなくその場に立ち尽くしていた彼女は――歩実にじっと、怒りのまなざしを向けていた。 (やっぱり、怒ってるんだ……) (まだ、あの日のことを――)  歩実の脳裏に、この合宿への参加を決意する原因にもなった出来事――1年半近く、ずっと心を苛んできたトラウマが蘇った。  ――中学の、卒業式の後。  写真撮影や卒業アルバムの配布など一通りのことも済み、あとは学友たちと別れを惜しみつつ、三々五々に分かれて最後の下校を迎えるだけとなっていた。  歩実は先に帰る男友達と別れ、校舎裏――ちょうど美術室の外に広がるコンクリートの段に腰掛けて、春霞の空を見上げた。 (ここに座るのも、今日で最後か――)  美術部に所属していた彼は、活動の合間によくここで休憩していたのだ。それも一人ではなく、同じ美術部の―― 「お待たせ、歩実。話って、なに?」  すぐに現れて隣に座ったポニーテールの女子に、歩実は胸を躍らせた。  楠本恭子。  入学直後、席が前後だったことから仲良くなった女子だ。やや強引なところがあり、口も頭も回ることから多くの男子からは苦手とされていたが――大人しい歩実とは相性が良かったのか、半年もたたないうちに下の名前で呼び合うくらいの仲になっていた。ちなみに、歩実に自分の制服を着せて女装させたのも彼女である。  クラスも3年間ずっと同じで、遊びに連れ出されたり、家に招かれたり、逆に押しかけられたり――基本的に歩実が恭子に振り回される形で、友人としての関係を深めていった。  しかし、この日。 「来てくれてありがとう、恭子。その……もう、いいの?」 「うん、歩実から呼び出すなんて珍しいもん。明日は雪でも降るんじゃない?」 「えっ、さすがにもう3月だし、雪は降らないんじゃないかな」 「冗談だって。で、どんな話を聞かせてくれるの、歩実?」  身を乗り出すようにして、改めて尋ねる恭子。  しかしそれは、ある種の儀礼に過ぎない。恭子は歩実が何を言い出すのか判っていたし、歩実もまた、恭子が判っていることを知った上で、それを口にすることにこそ意味があると考えていた。  中学の、3年間の関係。  それぞれ別の学校に行くことが決まっている以上、「友達」としてここで別れたらとうぶん会うことはないだろう。  だから―― 「あ、あの、恭子」 「うん」  いつもはせっかちな恭子も、この時ばかりはゆっくりと歩実の言葉を待つ。 「その――」 「…………」 「あのっ、よかったら、ぼくと――」  どんなふうに切りだしたらよいか迷った末、ついにその言葉を口にしかけたその時――悲劇は、起きた。  じわり、と熱く濡れる股間。  愕然と見下ろせば、制服のズボンに大きくシミが広がっていて、 「あ、あ……!」 「歩実、それ……!」 「ご、ごめんっ――」  歩実は股間を押さえたまま、恭子の顔を見ることもできず、その場を逃げ出した。その後、彼女からの電話もメールもすべて見る勇気がなく、関係は完全に途絶した。  3年間の中学生活、最後にして最大の汚辱にしてトラウマだった。   (続く)


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