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クラウストラムの後継者 #9 願い

 興奮したゴブリンのあげる雄たけびをあげながら、すっかりゴブリンに成りきったエマは森の中をひたすらに駆け巡った。  やがて。  エマは見覚えのある場所に出た。  一週間前に宝玉を見つけた巣穴の前だ。  広場に進み出たエマは、辺りの様子を見渡す。  ゴブリンの精が染みこみ、汚された不毛の広場だ。  無残な姿を晒す周りの樹木。  巣穴から漂う、ゴブリンの放つ不快な残臭。  なんと、居心地の良い場所だろう。  ここで、思う限り精をぶちまけたい。  そうすれば、どんなに気持ちがよいことか。  エマの心に、そのようなおぞましい欲求が湧き上がってくる。  だがすんでのところで、エマの理性が、その欲求を満たそうとするのを押しとどめた。  この場所は、いくらなんでも小屋から遠すぎる。  もとに戻った後、素っ裸で森の中を戻っていくというのは、いささか心細い。  残念だが、我慢するしかない。  心の奥底から湧き上がってくる切ない欲求を抑えこむ。  欲求を抑え込むなんて、ゴブリンのすることではないのに。 (いっそのこと……)  精を放出しても、元に戻らずになれるのならどんなにいいか。  エマの心に、そんな願望が浮かんだ。  そうすれば、何ひとつ気にすることなく、思うがままにあらゆるものを汚すことができるのに。 「……簡単なことだ」  ぼそりとした、男の声だ。  ぎくりとして、エマはその声の側に向き直った。  広場の片隅にいつのまにか現れたのか、外套を羽織りフードを目深に被った人物が立っていた。  そして。  エマは自分が囲まれていることに気がついた。  ゴブリンだ。  広場の周辺の木々に紛れて、自分と同じような緑黄色の肌のゴブリンが、十匹ほどはいるだろうか。  その中に一匹だけ、ひときわ背の高い赤銅色の肌をしたゴブリンが混じっているのが見える。  いずれも歯をきしませながら、エマと同じ、縦に黒く避けた瞳の黄色く濁った眼でこちらの様子を伺っている。  もしエマが普段のエマであったのなら、もっとはやくに彼らの存在に気がついたに違いない。  ドライアドには木々の発する違和感も感じられるし、何より強烈な悪臭に気がつかないはずがない。  だが、今のエマにとって、ゴブリンたちの匂いは自分自身の匂いと変わらない。 「お前の望みをかなえるのは、簡単だ」  男は、エマに歩みよりながらフードを外した。  男に向かって警戒するようによだれを垂らし歯を剥き出していたエマは、露わになったその顔を見て動きを止めた。  男の顔の印象は、全体としては人間のそれだ。  だが、ゴブリンとまったく同じ黒く縦に割けた瞳の黄色く濁った眼をしている。  それだけではない。  醜悪に盛り上がった鼻も、とがった耳も、ぶ厚い唇も、そして暗緑色の不健康な肌色も、いかにもゴブリンじみている。  エマは、本能でそれが何者であるかを理解した。  この男は、ゴブリン達の上位にたつ存在なのだ。ゴブリン達の[[rb:主 > マスター]]なのだ。  エマは、姿勢を低くして、ゴブリンマスターの様子を伺った。  彼は言った。  自分の、望みをかなえてくれるのだと。 「ただ、そう願うだけだ」  エマのすぐ前に悠然と歩み寄ると、ゴブリンマスターはそう命じた。  それは、ゴブリンの精神に染み入る声だ。 「そうすれば、お前の望みはかなうのだ」  片手をあげてエマの額の前で片手を広げる。  エマの額から、燐光のような緑色を帯びた明るい光の粒子が発し始めた。 「願え。豊穣の精霊であることを捨て、心の奥の奥まで下劣なゴブリンになると」  じんと痺れた頭の中で、エマはそのことを想像した。  背徳的な歓びが心に渦巻く。  心の底までゴブリンとなって、何ひとつ、気にすることなく、思うがままに、あらゆるものを汚すことができるのだ。  あのオンナに、じゃまされることなく、美しいものを、カンゼンに、おとしめることが、できるのだ。  光の粒子が強さを増し、まぶしいほどになっていく。  エマには、自分自身の内側のあらゆるものが洗い流されていくように感じられた。  それはまさに蕩けるような、とてつもない、未知の快感だ。   「あ……オデ……」  快感の本流に身を任せながら、ゴブリンのしゃがれた声で、やっとのことでエマは答えた。 「ドライアドであることをすてマス、心のオクのオクまで……ゴブリンに、なりマスうぅ……」  言い切った瞬間、光の粒子が奔流となって、エマの額からほとばしった。  同時に、エマは絶頂を迎え、ゴブリンの汚れた精を一気に放出した。  エマの額からほとばしった光は、ゴブリンマスターの手の中で凝集していき、やがて緑がかった燐光の混じった白い光を閉じ込めた玉の形状となった。  ゴブリンマスターは玉をしばし見つめた後、足下に倒れ伏す、一匹のゴブリンに視線を向けた。  精を放出したにも関わらず、その姿が変じる様子はまったくなかった。  もはやそこにいるのは、ただのゴブリンでしかないのだ。  ゴブリンマスターは、足元のゴブリンに興味を失ったように、その場から離れると茂みの中に進んでいく。  そこには彼が支配する群れの中でひときわ背の高い赤銅色の肌のゴブリンが待ち構えていた。 「来い」  赤銅色の肌のゴブリンが低い姿勢で歩み寄ると、ゴブリンマスターは携えていた玉を、無言でその額に押しあてた。  緑色の燐光混じりのまばゆい光があたりを包み、赤銅色のゴブリンの全身を覆った。  光に覆われたその姿が、醜いゴブリンのシルエットから少女の整った肢体へと変じていく。  光が減じていくと、その下から現れたのは健康的で柔らかい少女の肌だ。  鳶色の豊かな髪の毛、優し気な顔立ち。  赤銅色のゴブリンは消え失せ、その場所には[[rb:大地と樹木の精霊 > ドライアド]]の少女が立っていた。  赤銅色のゴブリンが身につけていた大きすぎる腰布は地面に落ち、精霊の少女は一糸まとわぬ姿である。  恥ずかしがる様子もなく、ややがに股の姿勢で精霊の少女は両手を体の前に広げ、自分自身の姿を確認する。 「おー、オレ、俺……じゃなくてあたしか……あたし、ええと、[[rb:大地と樹木の精霊 > ドライアド]]になってしまったのね」  その顔にいやらしげな笑みが浮かんだ。  まるでゴブリンのように鼻を引くつかせ、自身の体臭を堪能する。  それから彼女はゴブリンマスターに向きなおった。 「ぐ、ひひ……なんだか変な感じ」  自分自身の胸に両手をあてて揉みしだきながら、だらしない顔でニセのエマは言った。 「すぐに慣れる」  ゴブリンマスターの言葉に、精霊の少女は頷いた。  徐ろに片手を上げると足元の地面から太いつる草が何本も顔を出し、生き物のように少女の周りを取りまいた。  それは彼女の武器だ。 「ぐふ……そうね、もう慣れたかもしれないわ」  エマの能力も記憶も手に入れたゴブリンは、広場に倒れ伏しているエマだったゴブリンに視線を向けた。 「ねぇ、これからはあたしがエマなんだから、あんな汚らわしいゴブリンなんて殺してしまっても構わないでしょう……フヒ」  ゴブリンマスターは静かに首を振った。 「殺してはならん」  不満そうな顔をするエマにすり替わった存在を見据え、ゴブリンマスターはその理由を告げた。 「本質を奪い取ることはできない。お前のその姿も、知識もしょせん借り物でしかないのだ」  まだ腑に落ちない様子の紛いもののエマに、ゴブリンマスターは言葉を加える。 「もしも、このゴブリンを殺せば、お前のその姿も失われるのだ」  縛めのつる草を地面に戻し、エマは腕組みする。 「それは不安な要素ではないかしら。だって……」  いったん言葉を区切る。 「……ゴブリンはそこまで強力な障魔では、ないでしょう」  ゴブリンとなった元のエマが、何らかの原因で命を落としてしまうことを彼女は懸念した。  ただでさえ彼らは暴力的で知能も低く、衝動のままに愚かな行為をしがちな生き物なのである。 「そうならぬよう宝玉は使い手に護りを与えるのだ。その護りを破るのは容易ではない。使い手自身の力が強ければ強いほど、宝玉の作用は強まる」  ゴブリンの姿に囚われ、自身の全てを差し出したエマだが、差し出した物は失われたわけではない。 「強力な豊穣の精霊の力が、この者を、未来永劫にゴブリンたらしめるのだ」  ゴブリンマスターは着ていた外套を目の前の一糸まとわぬ精霊の少女に羽織らせた。 「ゴブリン臭い」  そう言ってニセのエマは顔をしかめる。 「我慢しろ」  ゴブリンマスターは、懐に手を入れると別の魔玉を取り出した。白い光を内に凝集している。  玉を持った手をエマに差し出し、受け取るように促す。 「これをどう使うの?」    魔玉を手にして問いかけるエマの耳もとに、ゴブリンマスターはその顔を近づけ、何事かを囁いた。 「では館に戻れ。[[rb:大地と樹木の精霊 > ドライアド]]の女。戻っておまえの使命を果たすのだ」 「言われなくても、もう帰ります」  外套のポケットに魔玉をしまい込むと、エマは少女らしい柔らかな動きでゴブリンマスターの脇をすり抜けた。 「はやく帰ってシャワーを浴びないと、それに……」  外套の裾を上げて、可愛らしい仕草で匂いを嗅いでみせてから、エマは言葉を続けた。 「ユートさんの食事を用意してあげないと」  エマはゆっくりと広場を横切り、来た道を戻っていく。  横たわるゴブリンの傍らまで来ると、そこで足を止めた。  放出の余韻に浸っていたゴブリンは、エマの近づく気配に気がついて顔を上げた。 「んふふ。ねえ、あなたは今どんな気分なのかしら」  ゴブリンは、自分の醜くだらしない身体の内側で、目の前に立つ少女と同じ肉体が辱めに悶え酔う様を感じながら、愚鈍なゴブリンらしく呆けた顔で、目の前の少女を見上げた。  粗末な外套に身を包んでいても、そこから覗く少女の顔はまるで深い森の奥でただ一輪開く花のように身震いするほど可憐だった。  このかけがえのなく美しいものを、自分は完膚なきまでに汚し、貶めたのだ。  自ら望んで自身の全てを差し出し、おぞましいゴブリンの姿に永遠に閉じ込められることによって。  ゴブリンの器官は再びその鎌首を持ち上げた。  涸れるということを知らない濁った精が、濃厚な匂いを伴ってその先端から滴り落ち始めた。  たるみきっただらしない顔に満足しきったような表情を浮かべ、精を漏らしながら立ち尽くす醜い生き物の愚かな様子に、エマは救いようがないとでも言いたげに首を振った。  それから踵を返すとその場を離れ、森の中に消えていった。


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