予想通り、蒼響の目の前で大和は立ち上がった。
大和の体にはじっとりと汗が滲んでいる。体の熱による発汗ではなく苦痛による脂汗だ。
たった今、蒼響が射抜いてやった脇腹が絶え間なく痛みを発していることだろう。三日月蹴りを突き刺した箇所が赤くなっている。
薄く開いた唇から熱を帯びた呼気を零し、浅く速く息をしているのも、痛みの証だろう。
「続行で大丈夫だね?」
「はい、いけます」
だが、レフェリーからの問いに返事をする大和の表情は変わらない。苦痛に耐えるようでもなく、ただ瞳に宿る眼光が真っ直ぐに蒼響を刺している。痩せ我慢というよりも、痛みに慣れているがゆえと見える。
その視線に応えるように胸の前でグローブを強く打ち合わせ、楽しくて仕方がないとばかりに口角を上げる。
「良いぞ、鳴宮! そのまま距離を保って攻めろよ!」
セコンドを務めるトレーナーの声が、蒼響の背中へと浴びせられる。
指示に従えば、恐らく手堅く勝ちにいけるだろう。だが、自らの欲求の疼きを止められそうにない。蒼響は胸の中でトレーナーへ謝罪した。
(あんな気持ちいい一撃決めて、大人しくしとくなんて俺には無理っす!)
蒼響は自らの原始的な感覚に身を委ねようとし始めていた。
試合再開。
レフェリーが号令を下して脇に寄った瞬間、蒼響は前に躍り出た。
「っしゃあ!」
そして、遠間からのジャブ。それに連なる右のローキックというコンビネーション。
上り調子のテンションと勢いがそのまま乗った蹴りが、大和の腿を鞭のごときしなやかさで以て打ち据える。
「……!」
相変わらずのポーカーフェイスだったが、ほんの少しだけ眉根の影が深くなったのを、蒼響は見逃さなかった。
反撃として返ってきたジャブも先ほどまでと比べればキレがなく、蒼響の目には軌道を読むのも容易い。スウェーバックで避けてやると丁度良い具合にギリギリで拳が顎先を掠めていき、その薄氷を踏むような感覚が一層に蒼響の感覚を研ぎ澄ませる。
自分は今、間違いなく闘争の最中にあるのだと、顎先に残った微かな熱が教えてくれる。背中を押してくれる。このまま攻めて攻めて攻めまくるべきだ、と。
即座に蹴り足を替え、左脚で大和の胴を薙ぐ。
「っ!」
遠心力を充分に乗せたミドルキックは、ガードする腕ごと刈らんばかりの重さがあった。射られたばかりの急所にも響いたか、大和の表情が険しさを増す。
ローキックを返されたが、これも先ほどまでと比べればのろい。悠々と自らの下腿を差し込んでカットした蒼響は、その瞬間に一歩踏み込んで大和の腹へと拳を叩き込んだ。
「う……っ!」
小さな呻き声、そして、腹に盛り上がる雄偉な肉の畝が苦痛のために波打つ。やはりレバーへのダメージは未だに大和の体を苛んでいるようだ。
彼のフットワークも、打撃のキレも、ダウン以前よりも見るからに鈍っている。
「このまま攻めさせてもらうぜ!」
熱の上った思考が、つい口から威勢の良い言葉を吐かせた。
間髪を容れずに大和の胸元へと真っ直ぐに蹴りを入れて彼の体ごと向こうへ押し込んだ。熱く、濡れた肌を足底で打つ、素肌で感じる打撃の反動が更に蒼響を猛らせる。
滾る闘争心に突き動かされるがまま遠間から脚を拳をと相手に浴びせ、攻め立てる。
大和が僅かにでも踏み込む素振りを見せようものなら強烈な前蹴りを見舞って押し返し、防御されてもお構いなしに、一発一発を全力で打ち込んでいく。
リング上で爆ぜ、大気を揺さぶる打撃音は殆どが蒼響のものである。
大和の腕も脚も、腹も顔も、少しずつ赤く染まり始めている。
無論、時折反撃は受ける。しかし、それはもう蒼響の勢いを削ぐ要因たりえない。
蒼響は大和に対して完全に優勢に立っていた。アウトボクシングをこのまま続ければ、勝利は堅いだろう。
このまま続けることを蒼響がよしとするならば、だが。
「おい、鳴宮! 前に出過ぎだ! 下がれ!」
そう叫ぶセコンドの声も、熱くなり過ぎた蒼響の耳には届かない。
彼の体は、猛攻の最中で一歩、また一歩と前進し始めていた。今や既に互いの拳が最大限に威力を発揮できる距離である。
身長は同等、即ちリーチも同等。接近戦を挑めばインファイターである大和に分があるのは自明の理だ。
──だが、それでも良い。何を差し置いても、この昂った気持ちを思い切り発散して戦いたい。
テンションが上がり過ぎると発揮されてしまう、蒼響の悪癖だった。
「シッ!!」
好機とばかりに大和の右拳が唸る。
それも鋭敏な視力と神経の前には見切れるもので、突き出された右ストレートを他所へと弾く。それだけでも肩までずしりと来るような反動があって、改めて相手の剛腕振りを思い知らされるようだ。
「遅いっての!」
それにも構わず、ガラ空きになった胴体の中央を狙って拳を振る。
「ぐォ……ッ」
グローブの革に汗が染み、馴染む。
距離を保って攻めていたときとは訳が違う。蒼響の打撃も、その全力を余すことなく乗せることができるのだ。
肝臓のダメージで上手く力の入らない腹には、アウトボクサーのパワーでもよく響いたことだろう。肌を押し、肉を圧して潰す確かな手応えがあった。
外から臓器を押し上げられるのは、強烈な不快感を伴うものだ。大和は目を見開き、苦悶を露わにしている。
「ぐぅっ!」
にも拘らず、次に苦痛を声に出すことになったのは蒼響の方だった。即座に放たれたフックが蒼響の右頬を弾いたのだ。
じわりと口内にまで滲む熱さが、すぐに正体を表して痛みに変わっていく。
「良いね、やっぱ手強いな!」
胸に留まる熱量を吐息と共に吐き、蒼響は目前の相手へ再び右脚を振り抜いた。
二人の闘士による拳と蹴りの応酬が絶え間なく交わされていく。
「ぶはっ!」
鼻先をジャブに弾かれ、大和の頭部が後ろに傾く。
「がっ!?」
それでもなお、強引に放たれた蹴りが蒼響の胴部を横から強烈な力で薙ぐ。脇腹に波打つ筋群が脛に打たれてみしみしと軋み、彼の体が掛けられる力のままにふらついた。
だが、隙を見せれば畳み掛けられる。そうなれば確実に仕留められるだろう。体の芯に力を入れて踏み留まると、蒼響は腰を切り返しながら膝を突き上げた。
「──っらァ!」
「……ぐっ、おォ……ッ!」
組み付かずに放つ膝蹴り──ムエタイで言うテンカオだ。咄嗟に放ったこれが上手く意表を突いたらしい。
膝頭が捉えたのは、大和の右脇腹だった。肉の表層に弾かれるのではなく、食い込んでいるのだ。少し位置はずれたが、肝臓打ちの痛みが残る体には充分な痛打に違いない。
一際大きな声、ついでに口の端からだらりと嘔吐反射による唾液が垂れている。
普通ならこのままダウンしてもおかしくはないところだが、驚いたことに大和は間髪を容れずに反撃をくれた。
「ぐっ!?」
反射で腕を上げてブロックしたが、やはり腕が痺れる。膝にも来ているはずなのに、パンチ力がまるで落ちていないのだ。
(っ、どんだけ頑丈なんだよ……! 良いね、やっぱり面白ぇ!)
そのまま、激しい攻防がリング上で続けられていく。顔面を拳で薙ぎ、腹を打ち、隙を見せようものなら蹴りつけ……二人の肌には雨に打たれたかの如き汗が伝い、打ち合う度に宙に煌めき、後には赤い花弁が肌に残される。
だが、そんな鍔迫り合いの戦いも次第に均衡が崩れ始める。
蒼響がじりじりと押されていっていることは、観衆の目にも明らかだった。
彼のギアは依然高く保たれたまま。だのに、大和をロープ際に追い詰めていたはずが、今やリング中央まで前線を押し上げられている。
蒼響は呼吸も乱れ始め、口で呼吸をする様子からもスタミナを削られているのは一目瞭然だ。流れ落ちる汗の量も夥しく、まるで体表に光を纏っているかのよう。表情からも余裕が消えている。
そして……
「ぐ──っは、ぁ゙っ!」
乱れ打つ最中に、ガードの下を潜り抜けたアッパーカットが、蒼響のボディを強かに捉えた。
強烈な一撃だった。
その腕に束ねられた屈強な筋肉が生み出せる力を、余すことなく乗せた突き上げは、背骨まで貫くような衝撃を蒼響にもたらした。
しっかりと固めた腹直筋ごと中身を押し上げる圧力に、
たった一発。それだけではまだ、彼をダウンさせるにはまだ足りない。だが、怯むものかと気持ちばかりは堅いのに、蒼響の体は意に反して後ろに下がってしまう。
「……っ!」
不意に、弾力のあるものが背中に触れた。ロープだ。蒼響の重みを受けてぎしぎしと鳴くそれは、滾る熱を帯びた肌には厭に冷たい。その冷たさに触発されるように、彼の額に冷や汗が滲む。
(ヤベ──)
今度は自分がロープを背負わされている。
頭の中でけたたましく鳴り響く警鐘にようやく気が付き、咄嗟に眼前の大和を押し返そうとした瞬間──
「があっ!?」
側頭部を襲った凄まじい衝撃に、蒼響の意識は一瞬暗がりへと落とされた。
高く振るわれた右脚に、頭部を刈り取られたのだと気付いたのは霞む意識が再び浮上し始めてからのことだ。
ロープに片腕を引っ掛ける形で崩れ落ちたらしく、倒れ込んだ体はロープに抱き留められている。
ダウンを奪われたのだと、そう理解し、蒼響はすぐに両脚に力を込める。
二人の間にレフェリーが割って入るや否や、会場からは熱の籠った声がちらほらと聞こえ始める。
優勢も劣勢も最早ない。これで完全にイーブンの状態だ。観客たちの声は、「面白くなってきた」と言わんばかりだった。
(汗あざ無し)
(オマケ。いい感じにかけたらラフ)
今回も、素敵なストーリーをはばねろさんに書いて頂きました!!!
ありがとうございます!!
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ていてい
2025-10-08 00:18:16 +0000 UTCていてい
2025-10-08 00:16:29 +0000 UTC笹熊
2025-10-07 16:43:01 +0000 UTCセレマナー
2025-10-07 09:47:44 +0000 UTC