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桜崎旭妃だったわたし(3)

 厩務員たちが去っていき、わたしは一人、いや、一頭で残された。  馬房は、入れ替わる前に見学した時より小さく感じた。  もしかしてエルフィングリーンの馬房は小さいのかと思ったけれど、種馬として稼ぎが期待されている馬に粗末な部屋を与えるわけがない。  わたし自身が人間だった時より大きくなっているから小さく感じるのだと、遅ればせながら気がついた。『エルフィングリーン』は大きい馬だと多賀雄さんに教わっていたなとも思い出す。  多賀雄さんは、今頃どうしているのだろう?  助けてくれないかと思い、難しいだろうと諦めの気持ちがすぐに心を覆う。  彼は今、意識をなくした『わたし』の身体にかかりっきりだろう。そこから『エルフィングリーン』の身体に入ってしまったわたしの魂にたどり着くにはどれほどの紆余曲折が必要になることか。  もしこれが、わたしとエルフィングリーンの入れ替わりなら多少は可能性があるかもしれない。でもそれは、『わたし』として目を覚ましたエルフィングリーンが自分の正体を説明してくれた場合のこと。人間の身体になった馬が自分が本当は馬であると話して周囲に信じさせられるだろうか。元馬に、そこまでの知性を期待できるだろうか。  そもそも、元馬は馬に戻りたいと思うのだろうか?  馬についてはよく知らないけれど、人間ほどの寿命があると聞いたことはない。二十年で長寿になる犬や猫ほどではないかもしれないけど、六歳の馬が二十歳の人間より長く生きられるとは思えない。  馬の生活と人間の生活なら、誰もが人間を選ぶことだろう。色々なものを食べ、様々な楽しみがあり、自由がある。一方の馬は、草を食べ、走るくらいしかすることがなくて、ましてこの身体は種馬として日々交尾を強いられる。  それらを無視して、馬の魂は慣れ親しんだ馬の生涯に戻りたいものだとしても。やはりそれを言語化しないことには『わたし』の身体のエルフィングリーンがここへ戻ってくることは難しい。多賀雄さんが変なことの起きたこの場所へ、『わたし』を勝手に、あるいは彼の選択で、行かせるはずがないだろうから。  元馬でも、人間になれば人間の能力を使えるのかもしれない。わたしが、人間とはまったく違う視界や四足歩行にすんなり順応しているように。  けれど、順応できるのなら人間から馬へ戻りたくないと考えるのも道理ではないかと再び思考は堂々巡り。  雄が雌として生きるのは嫌だと思うかもしれない。ふとそう考えて希望を抱くものの、エルフィングリーンは交尾をしたがらないと聞いたのを思い出す。適性検査というものがどれくらい調べられるのかは知らないが、実は同性愛だとしたら。そこまで行かずバイセクシャルとしても雌への選り好みが激しいのだとしたら。  第一、これが入れ替わりかどうかもはっきりしていない。わたしがエルフィングリーンに憑依してしまった可能性もある。馬としてすんなり動けているのは、馬の魂がサポートしてくれているからかもしれない。  ただその場合、もう『わたし』の身体は生きていないのではないだろうか? 元に戻れるかどうか以前に、もうわたしは馬として生きる以外に道はないのでは?  不安に駆られるが、耳を澄ましても救急車のサイレンは聞こえなかったし、こうなってから今までの間に聞こえた覚えもなかった。  だからって安心はできない。わたしの魂がないのだから、命には別条がなくても意識不明のままずっと目覚めないということも考えられる。そうなったらやっぱりお手上げだ。わたしと『エルフィングリーン』があの時近い位置にいたように、わたしと『わたし』の身体がある程度は接近しなければ元に戻るのは難しいだろう。眠り姫を目覚めさせるために、縁もゆかりもないはずの種馬に近づけるわけがない。  煩悶していると、厩舎の外から足音が聞こえた。 * 「ほらご飯だよ」  さっきの女性が桶に草をたっぷりと入れると出て行った。  この草の束が、わたしの餌なんだ。  周囲からは、別の馬房にいる他の馬たちが草を食む音が聞こえてくる。  草の青臭い匂いは、人間の時のようには感じない。むしろ食欲をそそる。身体が空腹を訴える。鼻も、胃も、目の前のものを食物だと認めている。  わたしは人間だ。草なんて食べたくない。  でもわたしの身体は馬だ。馬にとってこの草は食べ物だ。  逡巡はしたけれど、わたしはその草を口に含んだ。  前に伸びた大きな口、その中に草をたっぷり詰め込んで、噛みしめていく。歯で噛んで柔らかくなったそれらを、飲み込んでいく。喉の奥へ、胃へ、体内へ取り込んでいく。  わたしが人間だったら、こんなことできない。きっとすぐに吐き出してしまう。  なのに今のわたしの身体は、まったく抵抗を感じなかった。  おまえは馬なんだと、強く言い聞かされているように感じた。 *  その直後、また別の方向から、わたしは自分が人間じゃないことを思い知らされた。  トイレへ行きたくなった。  でも、馬房の中にトイレに相当する場所なんてない。  うろうろと歩き回る。だからと言って、それで収まってくれるわけもない。  こんなところでしたくない。わたし、人間なのに。  思いはする。けど、思うだけ。  今さらではあった。  四本足で歩くことも、服なんて着ずに裸で動いていることも、人間なら食べられるわけもない草をムシャムシャ食べることも、すでにわたしは受け入れていた。  できる限りの我慢はしたけれど、限界に達する。  わたしの体内から、熱を帯びたものが出て、床にぼとぼとと落ちた。  それとは別の場所から、熱い液体がじょぼじょぼと溢れ出した。 †  馬宮多賀雄が様子を見ていると、ベッドに横たわっていた桜崎旭妃が目を覚ました。  外でいきなり倒れて驚いたが、大事はなさそうで何よりだ。  が、目覚めた旭妃の様子は変だった。 「旭妃さん?」  話しかけると声に反応はする。けれど多賀雄を見つめる眼差しは、これまで見たことがないぼんやりしたものだった。  旭妃は頭の悪い少女ではなかった。それを頼りになりそうだと思いつつも、自分が主導権を常に取るのは難しそうだとも感じていて、多賀雄は微妙に不満を抱いてもいた。  それが今は、幼女のようにあどけない視線で多賀雄を見ている。庇護欲をそそるそのいとけなさに、多賀雄は股間を硬くした。  占いについては半信半疑だったが、こんなことになってしまうと多賀雄も認めないわけにはいかなかった。  知性や理性を失った状態というのは当人にしてみれば不幸だろう。けれど、幸福の形はそれだけじゃない。  一生面倒を見てやろうと多賀雄は誓い、旭妃に言う。 「責任は取るからね」  そして多賀雄は、今日二十歳になった少女の肉体にむしゃぶりついた。 †


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