『ヒトグイ』(上)
Added 2019-08-31 16:12:18 +0000 UTCあの日、俺の家族は壊れてしまった。 二年前のことだ。数え切れないほど悪夢にも現れた。 ――兄が父を殺し、失踪した日……。 ****** 中学生で、夏だった。 母親は宗教団体の定期集会に出掛け、弟は友達の家に泊まりに行っていた。 俺は部活の練習を終え、その後にゲーセンで友達と遊んでから帰宅した。雨に降られ、びしょ濡れになりながら駆け足で家の前に辿り着くと、いつもは明るいリビングの窓が真っ暗なことに気がついた。玄関扉の鍵を開けた時点で、なぜだか胸騒ぎがした。 その時間に家に居るのは父親と兄だけだった。普段とは違う、しんと冷ややかな空気の張りつめているような違和感を覚えながら、「ただいまァ」と声を掛けた。返事はなかった。人の気配を探るように廊下を進み、リビングのドアの前で足を止めた。ゆっくりとドアを開けたが、そこには暗闇が広がっているだけで父親と兄の姿はない。 二階からゴトンとくぐもった物音が聞こえ、俺は階段を上った。 二階の物置部屋から、クチャクチャと咀嚼のような音が聞こえ、そちらの方へ近づいていく。 「――蒼汰か。俺、気づいたんだ」 物置部屋の目の前に立った時、ドアの向こうから兄の声が聞こえてビクッと震えた。声音、声のトーンが、何だか俺の知っている兄じゃないような気がして、心臓がドクドクと鼓動のペースを上げる。 「何してんだよ、兄ちゃん。そんなところで。父さんもいんのか? 電気くらいつけろよな」 と、俺は誤魔化すように笑いながらドアを開けた。 思わず言葉を失った。 鉄の臭い? いや、違う。生ごみの饐えた時と似た生臭さがドアの向こうから押し寄せる。俺は血の気の引くような軽い眩暈を覚えながら、汗の滲んだ手で部屋の明かりのスイッチを押した。ぱっと天井の豆電球の光に照らされたのは、二メートル、いや二メートル五〇センチはあるだろう巨躯の男だった。逆三角形に筋肉の張り出した褐色の大きな背中に気圧され、足がよろめく。俺は男の足元に転がっている『それ』に気づき「うわッ、ァッ――」と悲鳴を上げて尻餅を突いた。 男の足元には、血まみれの父親の死体が転がっていた。腹を引き裂かれて内臓の剥き出しになった胴体から赤黒い血だまりが広がっており、生首がごろんと窓際の方に転がっていた。段ボール箱の積まれた棚と棚に挟まれて、物置部屋の真ん中に立っていた男がこちらをゆっくりと振り返ろうとする。 「うッ、わッ、アアッ、ァッ、アアアアアッ、」 俺は悲鳴を上げながら立ち上がろうとするが、足元に置かれていた段ボール箱に躓いて転んでしまう。死に物狂いで逃げようと身体をばたつかせていると、その男と目が合った。 「え……ッ?」 ――兄だった。 短い髭が生え揃い、表情もまた普段とは違ったが、間違いなく兄の顔だった。口周りと胸と腹と手にべったりと真っ赤な血を浴び、常人の領域を超えた凄まじい肉体に変わり果てた兄。とても高校生だとは思えない、いや、大人だとしてもあり得ない。憔悴し切った俺を見下ろし、兄は唇の両端を吊り上げ冷たい笑みを浮かべた。「え? え? ええ? はッ、」理解の範疇を過ぎて頭が真っ白になり、俺は廊下の壁に背中を押し当てながらがくがくと震えた。「兄ちゃん? はッ、えッ? 嘘、だろ?」ショックのあまり肺が縮まったような感覚がした、はッ、はッ、と呼吸が短く乱れる。 「蒼汰ァ……俺、気づいたんだよ。自分の、本来に――」 兄はそう言い、ぐっと両腕に力を入れた。俺の太腿以上の太さあるんじゃないかと思うような逞しい二の腕に力瘤が隆起し、分厚く盛り上がった胸筋にはビキッビキッと筋状の筋線維がうねりを上げる。それから兄は自分自身のはっきりと六つに割れた腹筋に手を這わせ、うっとりと恍惚の表情を浮かべながらガチガチに勃起したチンポを握った。臍にまで反り返ったデカ過ぎるチンポからは溢れんばかりの先走りに濡れている。 「アアァァァァッ!! ほらッ、来ッ、やがッたッ、ぜェッ、」 兄は前に屈んでビクッと腰を震わせ、限界まで怒張したチンポから凄まじい勢いで精液を噴き上げた。根っこから水を吸い上げる植物のように兄の皮膚には父親の血液がすうっと沁み込んでいくのが見え、ビキッ、ビキビキッ、ビキッ、と全身の骨格は悲鳴を上げて更に拡張され、それに伴って筋肉は厚みを増していく。二百キロ近くあるのだろうか、兄の体重に物置の床がミシミシッと音を立てた。まもなく兄の胸には蜘蛛を思わせる割れ目があらわれ、その歪な割れ目を中心として、皮膚は漆黒の硬い質感のそれに変化していく。額の上端の辺りからは山羊のような灰色の角が現れ、尻の付け根からはずるんと鋭い先端を持った太い尻尾が生え、チンポの根元から亀頭に向かって棘がびっしりと生え揃う。背中からは関節部に棘の生えた漆黒の翼がミシミシと軋みを上げながら現れる。手足の爪は鷹のように鋭い形状に変化し、犬歯は肉食獣の牙のように伸びていく。魔人、という言葉が頭に浮かんだ。アニメや漫画の世界で見たような魔人のキャラクターが目の前に現れたようだった。 「フゥーッ、フゥーッ、」 荒々しい呼吸に肩を上下させながら、兄はゆっくりと目を見開いた。 黒目の部分は深い紅に染まり、白目の部分は濃い灰色に染まっており、その表情は狂気に染まっていた。 「ハアッ、ヤッベェ、アアア、アアアァァァッ!」 兄はそう叫んで父親の死体に覆い被さり、ガッガッと腹の肉を貪り始めた。「ァーイクッ、イクッ、」と声を上げ、赤黒い小腸をチンポに巻き付けそれを片手で扱いていた。そうしながらも一心不乱に肉を喰らい、クチャクチャと音を立てて咀嚼し、顔を床に近づけて血だまりを旨そうに啜る。最後にはボロ雑巾のように原型を留めなくなった父親の死体を起こして両手で壁に押さえつけ(それは磔を思わせた)、内臓と内臓の隙間にチンポを捻じ込み激しく腰を振りながら精液を何度もぶっ放した。…… ****** 俺が覚えているのはそこまでだった。 目を醒ますと、病院の真っ白いベッドで横になっていた。 足元では母親が突っ伏して泣き崩れており、隣には目を真っ赤に腫らした弟が唇を噛んで立っている。 「お前のせいだ! お前が死ねば良かったのに!」 母親は目覚めたばかりの俺の襟元を掴んで怒鳴り散らした。 何が起きているのかは分からないが、とにかく自分が絶望的な状況にあることだけはひしと感じた。それからは終わりの見えない警察の取り調べが始まった。警察の言葉から察するに、何者かが父親を惨殺したということ、その犯人は兄である可能性が極めて高いこと、俺にも共犯の疑いが掛けられているということが分かった。物置部屋で見た記憶がフラッシュバックし、パニックから俺は取り調べの最中にたびたび過呼吸に陥った。 ――なぜ? どうして? 何が起きた? 兄があのような怪物に変わってしまったことが受け入れられなかった。自分の目にした光景をありのまま告白したが、警察からは「ショックで頭がおかしくなった」と思われたらしい。事件の残虐性の強さから、高校一年生の手で行われたというのは本当なのかと世間からは疑問の声が上がっていたらしい。複数人の大人の共犯がいるのが自然なのではないかと。 長い長い取り調べからやっと解放され、けれど俺に残されたのはどうしようもない現実だった。 母親は未だに「兄は犯人ではない」と固く信じているようだ。「お前がお父さんを殺したんだ、お前のせいでお兄ちゃんは出て行ったんだ!!」と母親から俺は何度も責められた。「お前は何を言っているんだ!」と祖父に取り押さえられる母親の姿を見た。そして、兄を溺愛していた母親は自殺未遂を繰り返し、精神病院に強制入院させられた。 マスコミからは恰好の獲物だと言わんばかりに追い掛けられ、世間からは「親殺しの子供」と白い目を剥かれた。俺と一番下の弟の聖也は転校を余儀なくされた。俺と弟は何もかもを失い、隣県に住んでいた母方の祖父母の元に引き取られることになったのだ。幸い祖父母は優しかったが、俺はどうしようもなくただ生きているだけで激しい苦痛に苛まれた。自分には生きている価値が何もない、そんな自己否定の感情が血管を巡っている感覚がした。 全ては、兄のせいだった。 どこへ消えたのか、未だに兄は逮捕されていない。 二年後―― 高校に入学した途端、俺は壮絶ないじめに遭った。兄の事件のことはバレていないはずなのに、どうして自分がターゲットにされたかのかは分からない。まだ中学の幼い面影を引きずったクラスの面々で、いじめの首謀者である狩野は大学生と言われても違和感のないほど恵まれた体格だった。狩野の横顔は兄と似ており、視界に入るだけで兄を思い出して心がざわざわするので、目が合わないようにしていたのがいけなかったのかもしれない。 「あーあ、良かったァ、俺、狩野のターゲットにされなくて」 とクラスメイトの男子が話しているのを小耳に挟んだことがある。狩野は中学校でも様々ないじめをやらかしていたらしく、何度か謹慎処分を科せられたこともあったと聞いた。普段は何もやる気がないように振る舞っているが、誰かをいじめるという場面になれば容赦のない暴力野郎に豹変する、と。実際、狩野によるいじめは苛烈さを極めた。狩野は、授業中や休憩時間では窓辺の席ではどうでも良さそうにぼうっとしているのに、放課後になると目をギラギラさせて近づいて来るのだった。 「狩野ちゃんは部活に入らねーのかよ? なあ一緒にサッカー部入ろうぜー」 とクラスメイトの浜田が狩野に声を掛けたことがあった。 狩野は、 「俺、岡本をいじめる部に入ってるからさァ」 とへらへら笑いながら言い放った。 教室の隅でそれを耳にしてぞっとした。 「なあ、お前もそうだろ?」狩野が立ち上がってこちらに近づこうとし、俺はビクッと震え、ぎゅうっと心臓の締め付けられるような痛みを覚えた。「なあお前、俺にいじめられる部に入ってるもんなァ?」 狩野は心底こちらを見下したような笑みを浮かべて言い、黙り込んだ俺の背中を殴りつけた。ちょうど肩甲骨と肩甲骨の間に強い衝撃が走り、心臓の飛び出しそうな痛みに呻き声を上げて床に蹲った。しばらく呼吸もままならず、口の端から涎がつうっと垂れた。 「なあ、こいつ、殴るとメッチャ面白い反応すんだけど?」 と狩野は言って浜田の方を振り返った。 「有田がうるせーからほどほどにしとけよ」(有田とは担当教諭の名前だった) 浜田は頭を上げて床に蹲った俺の方を見下ろし、すぐにどうでもよさげにスマホに目を戻した。 他のクラスメイトは見て見ぬ振りをしている独特の緊張感があった。誰もこちらに目を合わせもせず、ぞろぞろと教室を去っていく。――そうだよな、と俺は思った。皆、自分がいじめのターゲットにならなかったことに安堵している。俺が犠牲になることで、他のクラスメイト達がいじめに遭わずに助かるんだと。 どの道、犯罪者の家族には生きている価値などない……。それで皆が喜ぶなら黙って現状を受け入れるのが一番ではないか? 助けを求めたところで、兄の親殺しの事件がバレれば、きっと俺が悪いという流れに変えられてしまうに違いない。 だが、いじめっ子以外で俺に声を掛けてくれる人間もいた。 「よう、岡本。今日は一緒に帰ろうな!」 彼は教室のドアからひょっこりと顔を出して、俺の手を引っ張ってくれる。 玉川志人。別のクラスだったが、入学式から俺に優しく声を掛けてくれた同級生だった。人望があるようで、同級生はもちろん教師からの評価も高く、玉川が来てくれると俺に対するいじめはぴたりと止むのだった。「次に玉川がいじめのターゲットにされるかもしれないから、俺に近づかない方が良いよ」と伝えたものの、「俺は絶対大丈夫だよ! そんな気を遣うな! 友達なんだからさ!」と玉川は朗らかな笑みを浮かべて俺の肩を叩いてくれた。絶対大丈夫と言える根拠は何だろうか、とも思ったが、玉川を見ていると「本当に大丈夫なんだろう……」という前向きな気持ちになれるのだった。 「今日は玉川が来てくれなかったら、ヤバかったよ」 と、狩野にされたいじめの内容の一部を話すと、 「本当に怖い奴だね! でも、岡本くんは黙って耐えて、本当に凄いよ。俺も、岡本くんみたいに、辛い時でも誰にも言わず我慢できるような、忍耐強い人間になりたい、って素直に思うもん」 という温かな言葉を掛けられ、思わずじーんと目頭が熱くなった。 「そんな、ありがとう……」 俺が熾烈ないじめに耐えられていたのは、玉川という友達の存在も大きかったのだ。 祖父母の家に帰った俺は足音を立てないように階段を上がり、突き当りの角部屋に入る。そこは俺と弟で共同に使うように言われた八帖ほどの洋室で、俺と弟とのスペースを仕切るために部屋の真ん中にはカーテンが垂らされている。窓からはちかちかと鋭い西日が射していた。俺は学習机にスクールバッグを置き、制服の紺のブレザーを脱いだ。そのブレザーを持って一階の洗面所に下り、狩野らに踏まれた背中の靴跡を硬く絞ったタオルで拭う。 祖父母にいじめのことを心配されたくなかったから、こうして気づかれないように証拠隠滅を図っている。ただでさえ祖父母は俺と弟のことを可哀想だと嘆いているのだ、これ以上に心配されるようなことはしたくなかった。祖父母から心配の声を掛けられる度、俺はいつも泣き出しそうなくらい惨めな気持ちになってしまう。必要以上に干渉されたくないという気持ちもあった。 「ただいまァー!」 だが俺とは正反対に、堂々と大声を上げて玄関を開ける者もいる。 弟の聖也だ。 「おかえり! 今日は遅かったねェー」 祖母がスリッパをパタパタ鳴らして弟を出迎えるのが聞こえた。 「すっげェ汗かいた! シャワー浴びる!」 弟がどたどたと足音を立てて洗面所に近づいて来て、ブレザーを抱えた俺と目が合った。 「クズ汰、ここで何やってんの? 消えろよ」 聖也は祖母には聞こえない小声でボソッと呟き、汚物を見るような目でこちらを睨んだ。 聖也は俺のことを「クズ汰」と呼ぶ。それは母親からの影響だった――兄を溺愛していた母親は、兄に対する優しい態度とは対照的に、俺のことは「顔も見たくない」「産みたくなかった」「自分の子供だとは思ってない」「失敗作」と散々に扱き下ろしていた。俺の悪口を吹き込まれて育った弟の聖也は、小学生の頃から俺を軽蔑して見下すようになった。弟は母親の言うことを鵜呑みにし、嫌なことがあれば「クズ汰のせい」とこちらの責任を押し付けるような奴だった。 中学二年生になる聖也は、学校では社交的なキャラクターとして慕われているようだ。妙に勘の鋭い奴で、一度もいじめられているのを話したことなどないのに、「クズ汰、お前、いじめられてんの? ダッセェ、ほんと、お前みたいなのが俺の兄とは思えない」と嘲笑われたことがあった。 俺のおどおどした態度から、いじめられていると思われたのだろうか? 聖也と接すると、いじめられっ子を目の前にしている錯覚に囚われる。「気持ち悪ィ」と言われると、自分から悪臭が漏れ出しているような気がした。聖也だけではなかった。学校でも、トイレから出るたびに「臭い、臭い」といじめに便乗した女子どもから笑われるのだ。毎晩風呂場で皮膚が真っ赤になるまでゴシゴシと身体を洗い続けても、「自分は臭いのではないか?」という不安が消えることはなかった。 「死にてェ――」 夕食後、俺はぶらりと外に出て、暗い田圃道を自転車で走りながら呟いた。 俺が唯一独りになれる時間だった。一日のどこかで独りの時間を作らなければ精神が持たない。家でじっとしていると兄のこと学校のこと弟のこと母親のことなどが次々と頭の中に押し寄せ、息が詰まりそうになる。息が切れるくらい全速力で自転車を漕いでいると、そういったことがいくらかどうでもよくなる。二十分ほど走り続けると高速道路の料金所の近くでUターンし、そこからは自転車を押して歩いてゆっくりと帰るのだった。 田圃道にぽつんとある神社の前を通り掛かった時、 「よう」 とどこからか男の声が聞こえた。 俺は思わず「うわッ」と叫び、背後を振り返るが誰もいない。 普段は人通りなど皆無に等しい道だ。きょろきょろと周囲を見回し、神社の奥に誰かいるのかと銀杏の木の続く暗闇に目を細めた。だがやっぱり誰もいない。腋の下に汗が流れた。幽霊? そんな妄想が浮かび、俺はいよいよ怖くなり、自転車に乗ってその場を去ろうとした時、 「上だよ、上」 という声がして、空を仰ぐと電柱の上に巨大な人影を認めた。 「え?」 人影からざわざわと真っ黒な翼のようなものが左右に広がるのが見え、『ソレ』は飛び立った。一陣の風が巻き起こって神社に立ち並ぶ銀杏の葉が一斉に波立ち、俺は顔の前で腕を構えて目を瞑った。ズンッと地面に衝撃が走って振り返ると、背後には見覚えのある男が立っていた。その筋骨隆々とした肉体は三メートル近くあるのではないかと思われ、顔を見るには大きく頭を上げなければならなかった。濡羽色に染まった皮膚、爛々と深紅の光を放つ双眸、口元に覗く鋭い牙、頭から生えた二本の山羊のような立派な角、背中には殺戮の道具のような棘を持つ凶悪な翼、獣のような厚みと鋭さを帯びた手足の爪。銛のような尖った太い尻尾。 そう、忘れもしない―― 「久しぶりだな、蒼汰」 兄……いや、魔人だった。 その時の俺がどんな表情をしていたかは分からない。頭の血管の切れそうな激しい怒りに手がぶるぶると震え、歯を食い縛って魔人の姿に変わり果てた兄を見上げた。色々と言ってやりたいことがあるのに、いざ目の前にすると喉に物が詰まったように言葉を出せない。しばらくしてから「お前は……」という憎々しげな声を絞り出したものの、改めて見る兄の肉体は凄まじい迫力で、すっかり気圧されてしまっている自分がいた。 「家を飛び出してから、ずっと俺、蒼汰と聖也のことが気懸りだったんだ」 どの口で、と俺は思い、だが黙って魔人の目を見据えた。 「遠くから観察してて分かったぜ? 聖也の方は上手くやってるみたいだが、蒼汰はそうじゃないってな」 「黙れ」 どうして兄はそんな姿になったのか。どうして兄は父を殺したのか。 そもそも本当に兄なのだろうか? 質問したいことは山ほどあったが、今の俺には「黙れ!」と怒りをぶつけるしかできなかった。 「蒼汰、お前、いじめられてんだろ?」 「黙れ!! 俺がッ、家族がッ、どんな……ッ」 俺は胸に熱く込み上げる感情をぶつけるように叫んだ。 それを見て兄はくつくつと笑い、 「ああ、そうだな、お前がいじめられてんのは、俺の責任でもあるよな」 「うるさいうるさいうるさいうるさい! お前はッ、」 そう叫んで兄に飛び掛かろうとした時、胸にドッと衝撃が走り、俺は足から力が抜ける感覚を覚えて地面に崩れた。目を落とすと俺の胸には上着のシャツを突き破って魔人の尻尾の先が深々と刺さっており、肺から空気が漏れているように呼吸がままならず、喉の奥からヒューッ、ヒューッ、という音が通り抜ける。全身が痺れたようにびりびりして身動きが取れず、心臓が破裂しそうなほど鼓動を速めた。兄の尻尾がびくんと震えるのに合わせ、俺の身体もびくんと大きく跳ね上がり、そこから魔人の体液か何かがどくどくと流れ込んでくるような感覚がした。自分の身体を乗っ取られるような強烈な不快感に襲われ、額から脂汗が滲んだ。身体が痙攣し、俺は何が起きているのかも理解できないまま嘔吐した。 「喜べよ、これでお前は、いじめられる度に俺の姿に近づけるようになるんだぜ?」 兄からそんな意味の分からない言葉を投げ掛けられた直後、俺は意識を失った。 深夜、気がつけば俺は祖父母の家の玄関の前に倒れていた。 よろよろと起き上がり、なるべく音を立てないように玄関を開け、自分の部屋まで息も切れ切れに歩いた。布団に辿り着いたところで力尽き、寝間着に着替えず歯も磨かずに夢の世界に落ちてしまった。夢の中には小学生の頃に家族で旅行に出掛けた時の様子を見ていて、その中にはもちろん兄も存在した。その頃から母親に放置されていた俺は、溺愛されている兄が羨ましくて羨ましくて仕方なかった。だが母親にあれこれと世話を焼かれている兄は能面のような冷たい表情を浮かべており、俺からすると幸せそうに見えていた兄の内面にはそれとは正反対の怒りが渦巻いていたのかもしれないとぼんやり思う。 「蒼汰! 早く出ないと遅刻するよ!」 祖母の声で目を醒まし、「あ、やべ」と声を洩らして俺は慌てて起き上がった。時計を見て「えッ?!」と大声を上げ、手の平に冷や汗が滲む。もっと早くに起こしてくれよ~ッと八つ当たりのような感情が沸き起こる。どうやっても一時間目の授業には間に合わない時間だった。 昨晩のことが脳裏をよぎり、はっとして自分の胸に目を落とした。 服の破れた跡はあるものの、刺されたはずの胸には何の傷もなかった。どういうことなんだ? 昨晩のことは夢だったのか? 冷静に考えれば、失踪した兄があんなところに現れる訳がないよな。いやでも、夢だったならば服が破れるわけがないし……。俺は昨晩起こった出来事をぐるぐると考えながら学校へ行く支度を済ませ、「行ってきます!」と家を飛び出した。 「お前が遅刻なんて珍しいなァ……」 学校に着いたのはちょうど一時間目の終わる時間だった。廊下に入った途端に担任の教師とばったり出くわし、俺はばつの悪い表情を浮かべて「すみません」と答えた。それ以上は担任は何も言わずに俺を避けるように去っていく。 避けるように、ではなく、実際に避けられているのだと思う。なぜなら担任は絶対に俺の目を見て話そうとしない。担任は他の生徒とは笑顔を浮かべて冗談を交わしているのに、俺と話す時は夢の中で見た兄のような冷たい表情に切り替わるのだった。担任は俺がいじめられている現場を何度か目にしているはずなのに、それについても一切追及しようとはしない。だから俺は教師という生き物に何も期待していなかった。 俺が教室に入ると、雨が止んだように騒がしかった教室が静まり返る。 視線、視線、視線。ひそひそ声に背中をちくちくと刺されながら自分の席に座ろうとすると、椅子の上には無数の画鋲が接着剤で貼り付けられていた。「あれ? 何か岡本が通った後めっちゃ臭くねェ?」狩野が声を上げると、くすくすと笑い声が上がった。「おい、岡本お前クセェーぞ。風呂入ってねェーんだろ」狩野の取り巻きの一人がそれに追従する。最近、狩野らは放課後に関係なく俺に手を出して来るようになった。 昼休み―― 校舎裏に隠れて祖母の作ってくれた弁当を食べようとした時、背後から「岡本くん! こんなところにいたのか! せっかくだから一緒に食べようぜ」という狩野の声が聞こえて手が震えた。狩野と浜田と横山の三人だった。俺は弁当を取り上げられて襟を掴まれたまま男子便所まで引きずられた。げほッ、げほッ、と咳き込んでいると俺の弁当は個室の和式便器に放り投げられ、 「食べやすいようにデカい弁当箱に移し変えてやったぞ」 という橋本の嬉しそうな声がした。 「弁当箱って、便器じゃん!」げらげらと浜田と横山の下品な笑い声が続く。こいつらは何を言っているんだろうか? 狩野らは三人掛かりで俺の頭を弁当の中味の散らばった和式便器の底へと押し付けようとした。俺は食べ物の臭いと薄汚れた便器から込み上げる下水の臭いに吐き気を催し、「嫌だ、嫌だ! 離せッ」と叫びながら抵抗しているとガンッと頭の後ろを殴られた。 「おーい、食べ物を粗末したら駄目だって教えられなかったのか? 全部食べろよ」狩野は俺の頭を便器の底に押し付けた。「あーッ、きったね」そして狩野は手を離して立ち上がり、俺の太腿の辺りを蹴り上げた。「なー狩野ちゃん、一万持って来いつったのに、こいつの財布千円しか入ってないんだけど」少し離れたところから横山の声が聞こえた。俺のカバンを勝手に物色して財布から金を抜き取っているらしい。 「明日は、絶対、一万持って来いよな」 吐き捨てるように言って、狩野達は去っていった。 洗面台の鏡で、便器の水と弁当の米粒と海苔にまみれた自分の顔を見て、 「何で、こんな……」 と呟き、目頭が熱くなって涙が溢れそうになった。涙を堪えながら洗面台で頭と顔を洗い流し、口の中にわずかに入った便器の水を何度も吐いた。 狩野達が自分と同じ人間だとは思えなかった。 あいつらには人間らしい感情があるのだろうか? 怒りと同時に、財布から抜き取られた千円を思って罪悪感を覚えた。それは俺がこっそり祖母の財布から盗んだ千円札だった。本当は、狩野達からは一万円を持って来いと言われていた。俺は、何も盗まないでいた方が良いとは分かっていたものの、いじめの恐怖に屈してこっそり千円札だけを盗んでしまったのだ。これで勘弁してもらおうと。しかし奴らの要求には際限がない、俺の想定は甘過ぎたと言わざるを得ない。 いじめっ子に対する怒り、自分自身に対する怒り、惨めさ。 それらがないまぜになって頭がずきずきと痛み、胸も締め付けられるようだった。 「何なんだ、これは……?」すると兄に深々と刺された胸の辺りに疼きを覚え、心臓の鼓動がドクンドクンと激しく音を上げ始めた。呼吸が苦しくなって胸を押さえながら床に膝を突き、しばらくじっとしていると症状は落ち着いた。 びしょ濡れになった姿をクラスメイトの晒すのが嫌でこのまま帰ってしまおうかと思う。だが早退したら祖父母には何があったのかと尋ねられるだろうから、どこにも逃げ場がなかった。暗澹たる気持ちでトイレを出ると玉川が心配そうな顔でこちらに向かって走って来た。 「どうしたの?! 岡本くん!」 嫌なところを見られてしまった。 あれ? それにしても、どうしてこんなところに玉川がいるんだろう? と一瞬だけ不思議に思ったが、「ちょっと、」と答えて俺は目を逸らした。 「岡本くん頭びしょびしょじゃん! ……もしかして、また狩野にやられた?」俺は認めるのが辛くて黙り込んだ。「いや、何も言わなくていいよ。俺、部活で使ってるタオルがあるからさ、貸すよ」そう言って玉川は黒色のスポーツバッグから一枚のタオルを取り出して俺の頭に被せてくれた。 「あ……」 ありがとう、という言葉がなかなか出てこなかった。 その言葉を口にした途端、我慢していた涙がまた溢れそうな気がしたのだ。 「岡本くんは、本当に凄いね。俺、岡本くんのこと応援してるから、先生に言っても無駄だと思うから、二人で頑張って行こう。俺がサポートしていくからさ」 「ありがとう、本当に」俺は小声で言って嗚咽を洩らした。 祖父母の家に帰ると玄関には弟の靴があった。 今日は部活がなかったのか、聖也の方が先に帰っていたらしい。俺はいつものように足音を殺して階段を上がろうとした時、「ばあちゃん、知ってる?」という聖也の声が襖の向こうから聞こえた。「あいつ、ばあちゃんのちょくちょく金盗んでるよ」全身の血液が足の裏から流れ出るような激しいショックを受けた。 もうこれ以上は聞きたくない。そう思ってふらふらと階段を上って自室に入り、頭から布団を被った。祖父母に金を盗んだことがバレた、聖也にもバレていたらしい、細心の注意を払っていたのに、嘘だ、これから俺はどうしよう、もう誰とも顔を合わせたくない――そんな言葉が次々に頭に浮かび、気がつけば「自殺しようか」と呟いていた。 そうだ、自殺しよう。 俺はもう生きている価値がない。 遺書の中でいじめっ子どもに復讐してやろう。 「蒼汰、いるのかい?」 ドアの向こうから祖母の声が聞こえてビクッと震える。 「もう夕飯だから下りておいで」 俺は死にそうな気持で一階の食卓に向かった。お金を盗んだことを責められるのだろうと思っていたが祖父も祖母も何も言わず、いつも通りテレビを流しっ放しにしたままご飯を食べている。弟の聖也だけが汚物を見るような目で俺をじろじろと見つめ、何か言いたそうだ。何も責められないのが逆にとても辛かった。頭は痛いし、吐き気はするし、ご飯を掻き込むのはひたすら苦行でしかなかった。その晩は自転車で散歩することもなく、俺は自室に籠って頭から布団も被ったまま眠りに落ちた。 夢を見た。 酷い悪夢だった。倒壊しそうなビルの一階で、俺と、魔人と化した兄が睨み合って対峙している。 「だって、」と兄が口を開く。「だってそうだろう? 本当はお前、俺が父親を殺してほっとしてるんだろう? 母親があんな風に壊れちまってほっとしてるんだろう? お前、父親も母親も嫌いだったもんな。お前の目を見てたら分かるよ」 「ふざけんな!」と俺は叫んで兄に飛び掛かる。 兄はその拳を易々と受け止めてニヤリと笑みを浮かべるのだ。 「キレんなよ、俺もあいつらが大嫌いだったから、仲間じゃねーか」 そこではっと目を醒ました。 時計は深夜の二時半を差していた。 ドクンッ! ドクンッ! と狩野らにトイレでいじめられた後のように激しい鼓動を打っていた。兄に刺された胸が疼き、頭が割れそうに痛む。全身にびっしょりと汗を掻いて気持ち悪かった。何なんだろう? これは。 苦しくて苦しくて仕方がないが、どこか自分の身体にじんわりと力の満ちていくような感覚もあり、なぜか俺は勃起してボクサーパンツを盛り上げていた。ドクンッ! ドクンッ! という心臓の鼓動とともに性的な快感が広がり、パンツの中に先走りが滲むのが分かった。こんな時に性的な興奮を覚えてしまう自分が嫌で仕方なかったが、快楽に抗えず俺はパンツに手を突っ込んでチンポを扱き、ティッシュで受け止めることもせず射精に至った。 ビュクビュクッと精液を放つと同時に全身が異様に熱くなり、皮膚だか筋肉だかにチクチクと微弱な電流の走るような痛みを覚えた。俺は「はあ、はあ」と息を荒げながら相変わらず勃起の収まらないチンポを押さえた。身体の熱っぽさが落ち着いた頃にティッシュで精液を拭い、そろりそろりと一階の洗面所に降りてパンツを着替えた。鏡で自分の姿を見ると、目の錯覚かもしれない――少しだけガタイが大きくなっているような気がした。俺が驚いたのは兄に刺された胸の真ん中で、そこには蜘蛛のような模様がほんのうっすらと浮かび上がっているのだった。 (下巻に続く) ※お待たせしました! まだネタ振りと伏線張りの段階なのに、かなりの分量となってしまいました。 下巻はいよいよ主人公が覚醒していくエピソードとなります。 下巻は9月15日に発表予定です。