連載『 鬼は内 』(4)
Added 2019-01-29 05:27:07 +0000 UTC(4) 《節分さん》の練習は三週目に入った。 練習を始めて意外だったのは、適度に身体を動かすのは存外に楽しいと感じられることだった。鬼役と毘沙門天役の取っ組み合いでは、自分の身体能力の低さにうんざりさせられるものの、今村さんの指導の的確さ・上手さもあり、今のところどうにかついていくことができていた。 もっとも、橋本からは、 「お前、そんなんでやっていけるのか?」 「こんな弱っちい鬼とか終わってるだろ(笑)」 「ニートって聞いたけどマジで終わってるよなー」 と何度も嫌がらせを言われていたが……。 その度に自分の身体的・精神的コンプレックスが意識され、会社でのパワハラや父親の言動までフラッシュバックして苦しくなった。が、そんな時は加瀬の「(橋本は)性格に難あり」という言葉を思い出すことで何とか平静を保っている。 橋本からいじられキャラと扱われてはいたものの、加瀬の言っていたような「ヤバいこと」には至っていない。俺はハラハラしながらも、このまま何もなく終わるんじゃないだろうかという希望的観測を持っていた。 橋本だって今年で25歳になるのだ。俺より年上なのだから、普通に考えれば学生だった頃より落ち着いているはず。加瀬から不穏なことを言われて不安になったが、社会的な立場もある人間が、暴力を振るうなんて愚かなことはしないだろう。ましては近所の目がある同じ村の人間に対して。 ……まあ、本音では、橋本のような人間が嫌で嫌で仕方がないのだが。 「あー……思ったより早く着いちゃったな」 ここしばらく雪はなかったが、今日は朝からずっと降り続けている。 初回以降は、時間ぎりぎりに公民館に駆け込んでいるため、今日は早めに支度してやって来た。駐車場には橋本の黒のバンだけが停まっており、今村さんや加瀬の車はなかった。散水器で撒かれた水で黒っぽい雪が解け出し、ズボンやコートの裾に泥が跳ねた。 公民館の鍵開けは今村さんか橋本が担当している。橋本は先に中にいるのだろうと分かっていたが、奴と二人っきりというのはとても耐えられない。俺は氷柱の垂れた公民館の玄関の屋根の下で、まだ来ていない今村さんと加瀬を待つことにした。 手袋を外し、かじかむ指でスマートフォンのゲームアプリで遊んでいると、ガチャリと玄関の開く音がした。 橋本がぬっと扉から頭を出し、 「……何やってんだ? 入れよ」 と怪訝そうに俺を見下ろした。 俺はたったそれだけのことに心臓がどきどきするのを感じながら(分かりやすく橋本を避けた行為に、全くの罪悪感がなかったと言えば嘘になる)、「あ……すみません、どうも」と答えて公民館のロビーに上がった。 橋本はアイボリーのシャツに、暖かそうな暗赤色のニット、黒のチノパン姿で、ブランドは知らないが物の良さそうな服を着ていた。お洒落で、社会人らしい、と思ってから、自分もこの前まで社会人だったことを思い出して恥ずかしくなる。加瀬の言う通り、男から見ても橋本はモテそうだった。 橋本はロビーのファンヒーターの前の長椅子に腰掛けて足を組み、ポケットからアイコスを取り出して一服した。 ここって全館禁煙じゃなかったっけ? と思って禁煙のポスターを見遣ると、それを察知したのか「いいんだよこれは、アイコスだから」と橋本は目を細めて言った。 俺はその斜め向かいのスツールに座ってカバンを下ろし、 「……今村さんと、加瀬くんは、いつ来るんですかね?」 と言った。 橋本はアイコスを黙々と煙を吐き出し、丸一本吸い終わってから、 「あいつら遅れるって連絡あったから」 「……遅れるって何かあったんですか?」 「知らねーけど」 「早く来て欲しいですね」 「いや、俺的にはどうでもいいけど」 「そうですか……」 沈黙。 俺は再びスマートフォンを取り出してゲームアプリを開いた。 沈黙が気まずいというより、橋本と二人っきりでいるだけで何か「圧」のようなものを感じるのは、俺が相手を意識し過ぎているせいだろうか。橋本は片手にアイコス、片手にスマートフォンを持ち、相変わらず退屈そうな顔で画面に視線を落としている。 「なあ、」 不意に橋本が声を上げた。 「お前ってこういう行事どう思ってんの? やる気あんの?」 え? と俺は目を見開く。 どういう質問の意図なのだろう。なんて答えるのが正解なのかという考えが頭の中を駆け巡り、しばらく固まって返事ができなかった。 「やる気は……あるともないともって感じですね。橋本さんは、どうですか?」 とりあえず無難な回答で様子を見る。 「俺は、毘沙門天と鬼との取っ組み合いが普通過ぎて、つまんねえなって」 「……どういうことですか?」 「だから、もっと毘沙門天と鬼の取っ組み合いは本当に殺し合うくらいの勢いがあった方が、俺は面白いと思うんだよな?」 嫌な予感がした。 橋本はにやりと冷たい笑みを浮かべ、 「お前もつまんねェだろ? もっと色々やった方が面白いと思うだろ? 俺、真面目だしさー。村の行事に貢献するために、どうやればもっと面白くなるかって考えてるよ。お前ももっと真面目にやった方がいいぜ。な?」 「はあ……」 「だから、今、その練習しようと思いついた」 「えェッ? それって、橋本さんのオリジナルですよね? 今村さんの指導通りでいいと思うんですけど」 と答えると、橋本は露骨に苛立った声で、 「は? 馬鹿か? 今村さんも、俺らがもっとやる気出して、オリジナルの内容を考えたら一番喜ぶに決まってんじゃねえか」 「……すみません」 今村さんはあくまで自分のやり方を教えていきたいように見受けられたが、橋本がそう言うのならわざわざ逆らう必要もないと判断した。ただ、橋本は《節分さん》をより良いものにしたいから発言している、というより…… 「だから、な? 他の二人が来るまで、これから俺が個人レッスンをしてやるよ。お前、運動神経ニブそうだからな」 「…………」 嫌な予感が的中した。 俺が返事をする前に橋本は立ち上がり、いつも練習に使っている一階の十六畳ある和室に入っていった。荷物を持って部屋に入ると、既に橋本は「ふッ、ふッ、」と息を吐きながら柔軟運動をしていた。 「じゃあ、来いよ」橋本は肩幅ほどに足を開いて拳を構えた。「どっからでも来ていいぜ? お前がやってくるまで俺は何もやらねェから」 「……いや、こんなん、できませんって」 「はァッ?」 橋本は公民館中に響くような威圧的な声を上げた。 反射的に、俺はびくっと肩を震わす。 過去に上司に威圧的な声で迫られた瞬間がフラッシュバックし、ドッドッと心臓が大きく脈打ち、腋の下から汗が滲んだ。 「さあ、何ビビッてんだよ。俺は何もやらねェつってんだから。ほら一発殴って来いよ」 俺は泣きそうな顔で橋本に近づき、 「そんな、先輩を殴るなんて、意味わかんねェ、です……」 「遠慮すんなよ。俺は恨んだりしねェから。お前が強くなれるようにレッスンしてやるだけなんだから、よ? それじゃ弱っちいままで、一生ニートから抜け出せねェんじゃねえか? なあ? 俺を殴るくらいの根性見せろよ」 ははは、と橋本は高々と嘲笑する。 これが加瀬の言っていた橋本の「ヤバいところ」に違いない。 今までは第三者の目があったから奴の嗜虐的な傾向が抑えられていたのかもしれない。今この公民館にいるのは俺と橋本だけだ。ここに居座ればどんどん面倒なことに巻き込まれるのは目に見えていた。早く逃げなければ、と思い、 「今村さんたち遅いんで、ちょっと連絡してみますね」 と部屋を出ようとした時、 「おいッ!!」 窓ガラスが震えるような橋本の怒鳴り声が部屋に響いた。 「どうでもいい。どうでもいいから、早くしろっつってんだろ」 俺はビクッと肩を震わせて立ち止まる。 振り返ると橋本と目が合った。心底俺のことを見下して蔑んでいる冷淡な色を宿した目。かっと燃えるような羞恥心が湧き、それだけでなく、俺だってやれるはずだ、一発くらい喰らわせて見返してやりたいという怒りが漲る。 「う、ォォッッ!」 俺はどうにでもなれと言った気持ちで拳を握って走り出した。 右手を振り上げ、もう少し拳が橋本の胸の辺りに到達するという瞬間、パァッンという竹を割ったような音と同時に視界がぐるりと回転し、天井の木目が見えたかと持ったら床に叩きつけられていた。 「かッ、……はッ、ああッ、あッ、……」 しばらく息ができなかった。内臓が痙攣しているような感覚がした。俺は鳩尾の辺りに走った激痛にぜえぜえ息をしながら腹を押さえ、込み上げる吐き気に咳き込んだ。橋本の方を見る余裕もなかった。何が起きたのかもよく分からなかった。 「あははは、は、は、ははははッ、何だそれ、ちょっと小突いてやっただけで大袈裟過ぎんだろうが、あッははッ」 頭上で橋本の笑いが割れた。 ――殺してやる。 そう思った。殺してやる、殺してやる、殺してやる。 「なあお前、マジで弱いんだな。加瀬はまだ分かるけどお前が鬼ってすっげ笑っちまうんだけど。身体を大きくすることから始めたらいいんじゃねェの? あ、それ以前に身長が足りねェか」 痛みはなかなか引かなかった。額に脂汗が滲んだ。 俺は、はッ、はッ、と荒々しい呼吸で、腹を押さえながらゆっくりと起き上がり、 「先に帰ります」 「あ、お疲れさ~ん」 橋本は軽々しく言った後、 「ちなみにお前、今日のは、ただの演技指導だからな? 分かってるよな。しょうもないチクリとかしてんじゃねェぞ? これから色々教えてやるんだから」 とにっこりと笑みを浮かべた。 どこまで根性の捻じ曲がった男なんだろう。 俺は今までの会話を録音しておけば良かったと自分の頭の回らなさに苛々した。帰ったら、今村さんに事情を話して鬼の役を別の人に変えてもらおう。何なら警察に連絡をしてもいい。今村さんから言われれば、父親だって考えを改めざるを得ないはずだ。 橋本の話を無視して荷物を持って玄関を出ようとした時、 「おい聞けよ」 と背後からカバンを強く引っ張られた。 弾みでぼすんとリノリウムの床にカバンが落ち、わずかに開いたチャックの隙間から鬼の面の角がはみ出した。整体院で尚機から頂戴したそれだった。慌ててカバンを拾おうとし、横から橋本の手がぬっと伸びた。 「あッ、待てッ」 橋本は俺の胸元を押して突き放した。 「何だ、これ?」 橋本は鬼の面を取り出し、興味深そうに見つめた。今村さんに《節分さん》でこの面を使ってよいか訊くために持ってきていたものだった。 「すッげェな、こんな鬼の面は初めて見た」橋本はそう言って、青みがかった濃灰色の表面をそっと撫でた。「うっわ、皮膚みてェ、気持ち悪ィ」 ――絶対に他の人には渡してはいけませんよ 尚機の言葉がふっと脳裏をよぎり、言いようのない胸騒ぎがした。 「あッ……」 ――返せ。 俺がそう口にすると同じタイミングで、 「どうだ? 似合うか?」 と橋本は鬼の面を自らの顔に重ねた。 (続く)