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サトー
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連載『 鬼は内 』(3)

(3)  目を覚ますと、頭の奥がずきずきと痛んだ。  ……またか。  俺はうんざりした気持ちを抱えながら、起き上がってパソコンの横に置かれた頭痛薬のシートを手に取る。そこから薄いピンクの錠剤を取り出し、ペットボトルのお茶で飲み込む。  中学生の頃から、俺は慢性的な頭痛に悩まされていた。  薬にばかりには頼るのは良くない、というネットの情報に頷き、頭痛がしてもひたすら我慢していた時期もあった。ただ、そうすると日常生活の質が著しく下がり、何もできずに余計にストレスが溜まるというループに陥った経験から、今は頭痛がすれば迷わず薬に頼ることにしている。  俺はもしかしたら虚弱体質の傾向があるのかもしれない。  中学生の頃からひどい肩凝りに悩まされ、それが頭痛に繋がっているという確信があった。特に何をしたというわけでもない、気がつけば筋肉がどうしようもなく硬くなって石のようになっているのだ。  自分で金を稼ぐようになってから整体院や鍼灸院やカイロプラティックなど色々なところに通ったが、その時その時「食生活が悪いのでしょう」「寝不足なのでは?」「もっとストレッチを!」「ストレスを発散しましょう」と様々なアドバイスを言われるだけで、だがそれを実行しても目に見えた効果はあらわれなかった。  それでも俺は身体の凝りが楽になることを求め、会社員時代に溜めたわずかな貯金を崩しながら、効果のありそうな整体院や鍼灸院を探すのをやめられない。  父親に「どこに行っているんだ?」と言われた時は、「働いてもいないのに」と責められるのを予想して、「ハロワ」と答えることにしていた。 「……ここ、か?」  今日は、前から気になっていた吉川整体院を訪れた。  それは最寄り駅から三駅離れた場所にある。  駅から南に向かって徒歩ニ十分ほど民家に囲われた細道を歩いていると、一軒だけ、コンクリート塀の上に色褪せた文字で「保険対応 吉川整体院」と書かれた看板が張り出しているのを見つけた。  日本家屋の古びた一軒家だった。狸の置物の置かれた玄関の引き戸を開けて中に入ると、衝立に「右の扉にお入り下さい」と書かれた紙が貼られていた。ぱっとしない雰囲気だったが、かつて何人ものプロのスポーツ選手の整体を担当したことのある大ベテランがやっているという話だ。  靴を脱いで玄関に上がり、紙の指示通りに右側の扉を開けると、暖房のよく効いたこぎれいな診察室が広がっていた。むしろ少し暑さを感じるくらいだ。三つあるベッドは薄いピンクのカーテンで仕切られ、待合室となった縁側には大きな焦茶のソファと雑誌の書棚が置かれている。 「ご予約の方ですか?」  受付にいた若い男が微笑んだ。  俺は男を見た途端、その身体のデカさにぎょっとした。昨日会った橋本や加瀬さえも凌駕する二メートル近い身長で、さらには日本人離れした圧倒的な筋肉量を誇っている。爽やかな笑みとは対照的に、白衣の半袖からうっすらと血管の浮いたぶっ太い腕が主張している。  年齢は、はっきりとは分からない。もしかしたら、俺と変わらないくらいだろうか? 若く見えるが、いかんせんガタイが良いので、俺の方がずっと子供になったような気分になる。  すっげえな、カッケェな。俺もこんなガタイだったら、もっと自分い自信が持てるんだろうか。 「……あ、はい、今日の13時から予約していた友川ですが」  俺は受付にいる若い男を嘗め回すように見上げながら答えた。 「お待ちしておりました。どうぞ手前のベッドでコートを脱いでお待ちください」  平日の昼間というのはどこもこんなものなのだろうか? 評判のある店だと聞いていたが、不思議と他に客はいない。  俺はコートと厚手のパーカーを脱ぎ、長袖Tシャツとジーンズという格好で診察用のベッドの上に腰掛けた。 「では初めに簡単な問診をさせてください」  カーテンを開けて、さっきの受付の男がチェックリストを持って入ってくると、俺は症状に関する質問のひとつひとつに答えた。終わると男は席を立ち、しばらくしてまた俺のところへ戻って来た。 「じゃあ、始めますね」  男は俺の首や肩に手を触れ、「ああ、確かにこれは酷いですね。ではうつ伏せになってください。少しずつ解していきますから」と言い、軽く腕を回してニコッと笑った。相変わらずの爽やかな笑みだった。 「あ、ちょっといいですか? すみません……八田徹先生って、もっと年上の方なんだと思ってました。長年整体をやってるベテランって聞いていたので」  と俺が言うと、 「ああ、」男は苦々しい表情を浮かべた。「八田徹のために来られた方でしたか。先月に事故で亡くなりましてね。俺の父なんです。俺は八田尚機(はった なおき)です。せっかく父のためにお越しいただいたのに、俺で申し訳ないです」 「あッ、えッ、そうだったんですか。いや、すみません……」  俺は何となく気まずくなって黙り込んだ。客が少ないのは、彼の父が亡くなったことが影響しているのだろうか?  だが彼――八田尚機の手技は、今まで施術を受けた誰よりも丁寧なものだった。  整体、マッサージだけでなく鍼治療もできるらしく、「今日は暇だから」という理由で、わずかながら特別に鍼治療もサービスしてもらった。ベテランの先生にしてもらいたかったというのが本音だったが、治療が終わる頃には来てよかったなという穏やかな満足感を覚えた。風呂に入った訳でもないのに、身体がぽかぽかとして心地良い。 「はい、終わりです」 「ありがとうございました」  俺はこのまま眠ってしまいたい余韻に浸りながら、のろのろと着替えてカーテンを開け、施術代を払いに受付へと向かう。 「初診料込みで六千八百円になります」  財布から金を取り出した後、ふと、受付の背後の暗がりにまっ黒い鬼の面が掛けられているのに気がついた。  日本画に描かれているようなそれとは違う、禍々しさだけでなく、美しさも備えた黒鬼。完全な漆黒ではなく、どちらかと言えば濃い灰色に近く、のっぺりとした表面は薄く青みがかって見える。  青年を思わせる整った輪郭で、目の部分は白目ごとぽっかりとくり抜かれ、目尻から頬に掛けて暗い朱色のラインが引かれている。額の髪の生え際の辺りから鋭い二本の角が反り立ち、その先端はまた暗い朱色のグラデーションになっている。  閉じられた唇から怒りの表情は読み取れない。無表情というか、がらんどうで、吸い込まれそうな得体の知れない印象を与える面だった。 「……よく出来てるでしょう?」  思わず見蕩れてしまっていたら、尚機の穏やかな声が掛かった。  俺ははっとして尚機の顔を見上げた。 「いや、何か、珍しい鬼の面だなって」 「俺も、これは貰い物だから、作者もよく分からないんですよ。こういう場所に飾るのはどうかと父に言われたんですが、俺はとても気に入っていて。魅入られた、と言ってもいいかもしれない。このせいで人生まで変わってしまいましたよ」  そう話す尚機は、恍惚に近い表情で鬼の面を見つめている。たかが鬼の面で、人生が変わったとは何だろうか? 突っ込めば面倒くさい話を聞かされそうな予感がし、俺は、「へえ」とだけ短く答えた。どこかうすら寒いものを覚えながらも、その面に不思議な魅力があるのは否定できない。  まさしく俺も、魅入られたような感覚がしたのだった。 「友川さんも、こういったものに興味があるんですか?」 「いや、」と俺は答えて、誤魔化すように片手で首の後ろを掻いた。「今度、俺、村の《節分さん》という行事で鬼の役をすることになったんで……」 「ああ! 知ってますよ、その行事、俺も毎年見に行ってます。規模が小さい割に完成度が高いというか、よく出来てますよね」  それまで落ち着いたトーンだった尚機の声が、にわかに昂って響く。  心なしかその目にも輝きが現れたように見え、俺は尚機の反応に戸惑いを覚えながら、 「まあよく出来てはいますよね。俺個人としては、やりたくなかったんスけど、自治会の都合でそうも行かなくて……」  と答える。  もちろん、「親の脛を齧っている手前、親の命令に逆らえなくて」とは言わない。 「……やりたくないってのは、本当ですか?」  尚機は表情を変えずに、俺の顔を上から覗き込むように言った。  どういう意味なんだろうかと思ったが、「いや、まあ、頼まれ事なんでしょうがないですね」と無難な答えを返す。 「この鬼の面、良かったら友川さんにあげますよ」 「――えッ?!」  俺は尚機の言葉に驚いて素っ頓狂な声を上げる。 「俺、《節分さん》が好きなんですよね。友川さん、鬼の役なんでしょう? 鬼の面で使ってやって下さい。本来の使われ方をした方が、面にも良いと思うんですよね。この鬼の面を使ったら、より面白い出し物になると思うんですよ」  尚機はにっこりと屈託のない笑みを浮かべた。 「いや、こんな……高そうな」  どう断ればいいのか分からず、とっさにそう答えた。  それ以上は言葉が続かず、俺は言葉を呑んで受付のレジスターの辺りに視線を泳がせる。毘沙門天役の橋本の方がガタイが良いから、この鬼の面も、どうせ奴の方が似合うんだろうな。そんな考えがふと脳裏をよぎり、何だか少し悔しい気がした。 「それに、これを俺なんかが使っても……」  気づいたら、思ったことを口にしていた。  似合いませんよ、と。 「そんなことないですよ。会ったばっかりスけど俺、友川さんのことが気に入っちゃったんですよ。絶対、友川さんは鬼に向いていると思うんです……」 「鬼に向いているって、何ですか、それ」  俺は自嘲気味に苦笑する。 「俺を助けると思って貰って下さい」 「いやいや、そんな……」  欲しいか欲しくないかで言えば、欲しかった。理由はない。見た瞬間に、自分の心に訴えてくるような何かを感じたからだった。ただ俺は《節分さん》では目立たない程度に手を抜こうと思っていた。貰ってしまったら、鬼の役を頑張らなければならなくなる。が、まあ、そこまで考える必要もないのか、と思い、 「分かりました、その鬼の面、ありがたく頂戴します」  と、俺が根負けする形で鬼の面をもらうことにした。 「あーあ……何か、どんどん面倒くせェことになってくな」  帰り道、俺は目を細め、ボロ絨毯のような薄暗い空を見つめながら呟いた。  鬼の面を受け取る際に、尚機から「絶対にこれは友川さんが使って下さい、他の人には渡してはいけませんよ」と釘を刺されたが、その時の彼の表情が真剣そのものだったことが心に引っ掛かっていた。俺がこれを誰かに売り渡すとでも思っているのだろうか?  まあそれなりに値が張りそうな品ではあるが……。 「あれ? 友川さんじゃないですか?」  駅のホームでマフラーに顎を埋めて電車を待っていると、聞き覚えのある声がした。 「加瀬……さん?」  ドキドキしながら頭を上げると、加瀬と目が合った。  加瀬は、カーキ色の作業着の上に黒のダウンジャケットを羽織っていた。服装が違うだけど随分と大人っぽく見える。いや、大人っぽく見えるのはもともとか。電車の往来を告げるアナウンスが流れ、反対側の駅のホームに快速列車が停まった。 「加瀬でいっスよ。俺の方が年下なんスから。友川さんは何でここにいるんスか?」 「あ……いや、ちょっと、友達と会ってて。加瀬くんは……?」 「俺はバイトっスねー。ちょうど今その帰りなんですよ」 「へえ……」  そこで会話はストップした。  俺の方が年上なんだから、何か会話を誘導しなければならない気がした。が、毎度のことというか、何も頭には浮かばない。下手に喋ってボロを出しても意味がないしな、と思いながら俯いた時、ふっと脳裏に、橋本の憎たらしい顔がよぎった。  そうだ、あいつのことを訊いてみよう。 「そういえばさ、あの、加瀬くんって、橋本さんとは仲が良いんだよね」 「仲が良いと言えば、良いですよ」  何だか含みのある言い方だった。 「ラグビー部のOBなんだったよね」 「そうなんス! マジであの人センスの塊ですからね、ほんとはもっと有名になっててもおかしくないんですけど、まあ色々あったから」  ん? と俺はわずかに首を傾げる。 「色々って、何があるの?」 「いや……」加瀬はしばらく間を置いてから、俺の方に一歩近づき、「これ、橋本さんには絶対に言わないで下さいよ」   俺は「ああ、言わない、言わない」と胸の前で手を振って、加瀬の目を見た。 「あの人って、結構性格に難があるじゃないっスかァ? それで、」  俺は思わず噴き出した。 「性格に難があるって、何?」  と聞くと、 「えェッ? それも知らないんスか? 結構有名なんだけどな……」  加瀬はきょとんした顔で言った。 「……仁さんって、高校の時も暴力沙汰で退学させられそうになってるじゃないですか。謹慎とかも多くって。まあ、暴力沙汰って言っても、仁さんが一方的に誰かをいじめてたらしいんですけど」  その後の加瀬の話をまとめると、どうやら橋本は大学でも問題を起こしたらしく、体格に恵まれ、ラグビーの能力そのものはとても高かったにも関わらず、謹慎の期間もあったそうであまり顔を出していなかった時期があるそうだ。  俺は、ドン引きした、というよりは先の思いやられる気持ちになり、「へえ……」と小声で返事をした。 「あの人、何か、誰かに暴力振るう時、メッチャ興奮してるとかの噂もありますよ。笑いながら殴ってたとか、変な噂ばっかりっスね。女絡みもあるかな。あの人、見た目はカッコいいからモテるんスよ。でもまあ、とにかくヤバいらしいで、俺、仁さんと《節分さん》の練習する時はメッチャ気を遣ってるんスよ」 「あ、そうなんだ……」 「友川さんも、あの人には気ィつけた方がいいですよ。スイッチが入ったら、どこまでも追いかけてくるみたいなんで」  加瀬はそう言ってクスクスと笑ったが、俺は全く笑えなかった。  気をつける以前に、俺の場合は、既に目をつけられてしまった気がしてならないのだが……。せっかく整体で解れた背中に力に入り、背筋に冷たい鉄の棒を通されたように強張るのが分かった。俺と加瀬はホームにやってきた電車に乗り、その後はほとんど何も話すこともなく、同じ駅で降りてその場で別れた。 (続く)


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