静かな6月の晴れの日だった。
その場所にたどり着いた時には2人でここまで来たというよりか、置いていかれないように必死についてきたというような気分になっていた。
社名がきっちりと残された7階建てほどの廃ビル。
まだ朽ちるような年月を経ていないのか、心霊スポットとして語られるにはなにかが足りず、自動ドアや窓のガラスから見える薄暗い室内にがらりとした空気だけがみっしりと詰まっている。
そのビルの麓、頂点を越した6月の日差しが作る短い影に入り、
文喰シミはようやくこちらを振り向いた。
ずっと何か不安な感じがして気持ちが悪い。
珍しく向こうから『一緒に出かけないか』とメッセージが来た時も、
会って何気ない話をした時も、
不便な交通手段をいくつか経由している時も、
聞いたことのない街の中を山の方角に向けて歩いている時も、
ずっとずっと今日は何かがおかしかった。
本来であれば嬉しい時間のはずなのに。
例えるならば、別れ話を控えた恋人のような胃の痒くなる居心地の悪さが、湿度のように満ちていた。
「物語にはよくあるけれど、実際に見るの珍しいですよね、廃ビル。
私もいろいろなところを歩いたけれど、ここぐらいしか見つけてないや。」
日陰の中、文喰シミがそう言葉を発して軽く笑顔になった。
「しかしなんでこんな街から離れた場所にこんなビル建てたんでしょうね。日照権?とかかもしれないけれどそれで結局廃ビルになっちゃったらね。」
そんな言葉を聞きながら、相槌をうちながら、また嫌な予感が染み出してくるのを感じている。
今日の文喰シミはずっと、どこか、変だ。
他愛のない話が本当に他愛のない話ばかりだった。道を歩く時にキョロキョロとせずに前だけをじっと見つめて歩いていた。
そして笑顔が、なけなしの意地悪さだったり、バレバレの優しさだったり、ころころと変わる何かをいつも潜ませていたそれが、今日は薄っぺらに統一された形をしていて、それがどうにもとても嫌だった。
「ここの窓だけずっと鍵かかってないんです。」
そんなことを言いながら確かに鍵の空いていた窓をガラリと開けると、文喰シミは窓枠に足をかけ、慣れた動きで建物に侵入した。
少しだけ慌てて後を追う。
もともとオフィスだったであろうその室内には椅子と机が放置されて、ほんの少しだけ埃を被っていた。
外よりほんの少しだけ温度の下がった空気はまだ蒸し暑く、それでいて気味が悪い。
すでにオフィスの出口に向かって歩き出した文喰シミが
「大丈夫。野生動物にここで出くわしたことはないので。」
なんてズレたことを呼びかけてきた。
じっとりと汗をかきながら登った階段の先、屋上へ続く重い鉄製の扉の鍵は内側から簡単に開いた。
外には山々と、来る時に通ってきた田舎にしては太い道路、田んぼとぽつぽつとある建物が遮られることなく広がっていた。
遠くにはそこそこの街並みと線路までがはっきりと見えた。
今日生きた世界の全てがそこにあるみたいだった。
いつもだったら息を呑んでしばらく眺めるところだっただろう。一緒に。
そして得意げな顔で自慢されるはずだ。
けれどそうならなかったのは、文喰シミが景色を前にしても足を止めなかったから。
行きに買ったカルピスウォーターのペットボトルを飲み干して、滑らかなその残骸をプラプラと振りながらゆっくりと歩き続ける。
そうして、すこし高めに作られた柵に触れられるところまで来てようやくこちらを振り返って、
「帰りの分まで飲んじゃった。」
なんてまたペラりとした笑顔を作るのだ。
耐え難く嫌な予感がした。
だから、
まるで鉄棒に登るようにして、
文喰シミが柵に身を乗り出した時には、
喉が締まって変な声が漏れた。
危ないとすぐに伝えた。呼びかけた。
文喰シミは、器用に柵の上にこちらを向いて座ると
「足をしっかり柵に絡ませとけば大丈夫。」
なんて口角を上げた。
頼むから降りてきて欲しかった。
怖くてたまらなかった。
そうして、それから、しばらく無言のまま時間が流れて、それから、文喰シミが急に申し訳なさそうな顔になって
「今日なんで、ここに連れてきちゃったんでしょうね、すみません。」
なんて言うから、たぶん嫌な予感が予感じゃないことがわかってしまって、肺の底がせり上がるような気持ちがした。
とりあえず降りよう。と、
話をしよう。と、
呼びかけてみると、文喰シミはますます申し訳なさそうな顔になった。
「でも、こうして宙ぶらりんにならないと、世界に潰されちゃう日ってありません?
これって虫だけなんですかね。」
「落ちたとしても、ほら、私バーチャル紙魚なので、地面にあたる前に虫になったり電脳世界に潜っちゃえば死にませんし。実際何度か似たような経験あるんですよ。」
少し離れた位置から降ってくる言葉を冷静に聞き入れる余裕なんてなかった。
本当に降りてきて欲しかった。
降りてきたらすぐにでも触れたかった。
嫌がられても抱きしめて、そのまま泣いてしまいたかった。
「ごめんなさい連れてきて、自分がいま、どこかおかしくて、よくないことをしているんだってことはわかっています。」
さっきよりもずっと静かな声だった。
おもわず顔を上げて、
そこで今日初めて、文喰シミとしっかり目が合った気がした。
透き通った目だった。
瞳の表面に鏡のように空が映り込んで、風のない日の水溜りの、深い青色がそこにあった。
絶望的な気分になった。
自分が何を話せば、何が変わるのかまるでわからなかった。
もっと濁っていて欲しかった。もっと迷っていて欲しかった。涙で濡れていて欲しかった。
揺らいでいて、弱くあって欲しかった。
このままだと、もしかしたら文喰シミが永久にいなくなってしまうかもしれなくて、
自分にそれを止められると思えないことが、
貫かれるように、貫かれるほどに、貫かれるよりも辛かった。
体の内側が、どこかもわからないまま痛くてたまらなかった。
「私よりもつらい顔をしないでください。
私まだひとことも飛び降りて死ぬなんて言ってないでしょうが。」
明るい調子を含ませた声で文喰シミが口を動かした。
ただ、すぐに静かな声が聞こえてくる。
わかっていた。
「ただ、どうしようもなく、毎日思うようになってしまったんです。
生きたくないし、死にたくもないならどうすればいいんだろうって。
お金がないとか、生きるのが下手とか、未来が暗いとか、自分が醜くなっていく強迫観念とか、それがもし全部解決しても生きたくなかったらどうしようって。」
抑揚のない声だった。さっきのオフィスの埃の積もった床をそっと撫でていくような、沈んだ声だった。
「生きたくも死にたくもない命は、どうするのが正解なんだろうって。」
「宙に浮いたような、水底でもがいたような手応えのない日々を続けるのが本当に正しいのかって。」
「頑張れないことは、頑張っても報われないことより苦しいんじゃないかって。」
だから、
と、呟いた声は鮮明に聞こえた。
あまりにも風のない日だった。
「だから、試すしかないんじゃないかって、頭のどこかが言うんです。」
「生きても死んでもいない空中に命を投げ出して、確かめるしかないって自分に脅されるんです。そんなはずないってわかってるのに。」
「確かに私は飛び降りても生き残れる力を持ってて、
だからってこんなこと、
いいはずがないのに。」
あまりにも静かな午後だった。
太陽が黙って光っていた。
「毎日毎日、結論の出ない問いを無視し続けて、結論の出ないまま苛まれ続けて、
このままじゃ疲れるばかりだから、
疲れてしまったら本当におしまいだから。」
「生きたいと思えば、
きっと私は生きられるから、
だから、だから、」
「それを今から確かめなきゃいけない。」
それは独白で、今までずっと言えなかった文喰シミの弱さで、ずっと言えなかったことへの謝罪だった。
そして、変える気のない決意だった。
もうとっくに限界だった。
そのままゆっくりと降りてきてくれるのなら、それからつらいと泣いて頼ってくれるのなら、それで今日が終わるのなら、
本当になんでもすると思った。
己の全てをもって文喰シミを救わせて欲しかった。
文喰シミが、柵に絡ませた足を解いていく。
ゆっくりと腰を浮かせていく。
それを見ていることしかできない。
駆け寄ったらきっとすぐに身を投げ出してしまうだろうという予感があって、
でも、きっとなにかできることがあるはずで、それがなにかどうしてもわからない。
苦しくて、苦しくて、文喰シミよりも先にズタズタに全身が裂けて死んでしまうんじゃないかと思った。
とうとう柵の上に片足が乗る。
バランスを崩しかけて慌てて手で柵を掴んだ文喰シミは
「おっと、ここで柵を掴んだってことは生きたいのかも。」
なんて強がって言う。
やめてと声が出た。頼むから、やめてほしいと、カラカラに乾いた喉からそれでも、確かに伝わるだけの声が漏れ出た。
文喰シミは目と鼻を少し赤くして、今にも泣き出しそうになって、
それから無言のまま、
片足で身体を外へと蹴り出した。
銀色の髪が靡いて、渓流を泳ぐ魚のように一瞬の輝きを放った。
細い身体が青空に勢いよく放たれて、そのまま溶けていきそうだった。
あるいは、重力なんてものが今この刹那だけ世界から消え失せて、ふわふわと浮かび上がっていきそうだった。
それから、
当たり前のようにその身体は、文喰シミは、
落ちてすぐに視界から消えた。
怯えることしかできない。
雷を恐れるようにうずくまって、
地面を眺めることしかできない。
叫びたかった。
叫べない。
叫んだら、その声で何かを消してしまう気がした。
まだ音は聞こえてこない。
生きている声も、聞きたくない音も。
この瞬間、それが全ての救いであり、恐怖だった。
叫びたい。
叫びたい。
世界に代わりに叫んで欲しかった。
山の木々が、空が、大気が叫んで自分の代わりに今日という日をかき消してくれればどれだけ良いかと思った。
そしたら、きっと自分は、きっと文喰シミを救うのだと思った。
静かな6月の晴れの日だった。
音は聞こえていない。と思った。
少なくとも認識してはいなかった。
動けなかった。
乾いた喉がせり上がった胃液で湿った。
静かな6月の晴れの日だった。
風はまだ吹かなかった。
空だけが確かに青かった。
糸こんにゃく
2024-06-28 13:49:25 +0000 UTC