火星に存在する多民族国家「連合国」には海というモノがない。 季節という概念も希薄になっている。 敵性生物「イリーガル」による攻撃に備えるために地表は整えられており、生命活動に必要な物質を発するバリアで火星全体が覆われている。 国民の多くが見る海とは、教科書の中と娯楽施設に設置された擬似的なものに限られる。 よって、生まれてから戦うことしか知らなかったnemo1が海に興味を示したことは、vanにとって喜ばしかった。が、複雑な心境でもあった。 彼女が昔から親しくしていた仲であり専属ドクターでもあるレイ・サカキがどれだけ薦めても一瞥するだけで目立った反応を返さなかったのに、たった数ヶ月前にバディとなったvanが言及した途端にシフトを揃え、休日を合わせ、昨日は部屋へ押し入られて何着もの水着を見せられた。 ドクターに多少の申し訳ないという気持ち(だが今「いやあ愛ってすごいなあ!」とか大笑いしているのだろう)と、亡き娘と重ねてしまっていた少女からの眩しい眼差しに苛まれつつも、やっぱり断ることは心苦しいので、しぶしぶながら同行するに至ったのだ。 世間や情緒に疎い彼女を今では放っておけなくなったし、旧地球――故郷の奪還が成功するまでの呼称だ――でご存命らしい顔も名前も知らない御父上への仮定的なシンパシーもある。 悪い虫が付いたら、彼女がしたたかに噛む前に追っ払ってやらねばならない。 隣に立つ華奢な少女を視線だけで見下ろす。膨らませた浮き輪をがっしり掴んでいるのは、肩に掛ける、という持ち方を知らないからだろう。 不可解な気持ちでvanが注視しているのは、彼女の水着のほうだ。 「……nemoちゃん、その水着、昨日おれが選んだものじゃないよね」 「アンタが二番目に気に入った水着でしょ」 サングラスをずらして彼女がこたえた。 「一番はアンタだけが知っていればいいわ」 得意げに片頬を吊り上げる。まるで遥か昔にハリウッド映画の主人公の相棒として登場する美しい女性スパイのようだ。 vanは、一瞬見惚れて言葉を失ったものの、じゃあ自分はいいところで制作スタッフのカメラマンが関の山だろうかと考えたところで情けなくなった。 「おれだからいいけれど、他の男にそんなふうに勘違いさせるようなことを言うんじゃないぞ」 「はあ? 他の誰にも言わないし、言うつもりないわよ。ふざけないで」 低い声で言ったnemo1が美しく整った顔立ちを不快そうに歪ませる。それでも可憐さは損なわれず、迫力だけが増す。 周囲で擬似的な海水浴を楽しんでいる機巧天使(アンジェ)の親子や、ウエイター型の機械兵(エクス)らが、なにごとかと言いたげにこちらを見る。 しかし、彼らの存在など気にも留めていないnemo1は、プールへ視線を転じると、表情を年相応にきらめかせるのだった。 「ま、いいわよ。今日はまる一日遊ぶのに付き合ってもらうから」 「お供するよ、どこまでも」 いつかすべての敵を倒し、取り戻した故郷で会いまみえることになるだろう彼女の父親に「悪い虫」認定されない程度に、という言葉を飲み込み、vanは駆け出したバディの背中についていく。